小説

『ビヨンの妻』霧赤忍(『ヴィヨンの妻』)

 寒風吹きすさぶ十二月、私はコートも羽織らず上下ジャージ姿で坊やを背負い、田舎道を全力疾走しています。連絡を受け夫のもとに向かっているのです。
 道なりに一キロほど進めば県道に差し掛かり、すぐ右手にある食料品店『スーパー椿丸』が目的地です。五分ほど前に井上と名乗る男性から、夫が万引きを働いたと連絡が入ったのです。
 私は頭が真っ白になり着の身着のまま、坊やを背負い、あばら家を飛び出しました。
「ハムハム」
「はいはい、蓮太郎(れんたろう)。寒いね」
 来年四歳になる蓮太郎は、よその子よりも体躯の発達がよく、ご近所様から「もうすぐ小学生?」と尋ねられます。母親として坊やの成長は喜ばしいことですが、体躯に集中しすぎたためか、まだ言葉を話すことができません。脳の病気かと疑念を抱き、お医者に相談したのですが「どこにも異常はなく元気なお子さんです」と診断され現状様子をみています。外見上は五歳児ほどで、出てくる言葉は「ハムハム」ですから、余計に不安になり一人嗚咽を漏らしたこともあります。夫は楽観的に捉えているようで「大丈夫でしょ。だって俺が話せたの六歳だしー。心配ナッシングでしょ」と優しい言葉をかけて下さります。
 その優しい夫が万引きをしたのです。連絡を受けた直後は理由がわかりませんでしたが、身を切るような風が脳をクールダウンさせてくれたのか、思い当たる節がありました。話は三カ月前に遡ります。

 私たちは今の住みかより利便性に富んだ、関東近郊にアパートを借りて住んでいました。道路や公園は整備され、電車や地下鉄も通っており、日用品の買い物も複数店から選択できる場所でした。
 私は坊やを託児所に預けコールセンターで仕事をして、夫はコンビニでアルバイトをして生計を立てていました。
 ある日、慌ただしく玄関を開ける音がして、私はその音で目が覚めました。それは夜間シフトを終えた夫が帰宅したことにきまっていますから、私は玄関に行き寝ぼけ眼で「おかえり穰一(じょういち)」と声をかけました。夫は興奮した声音で「さっちょん。俺、マジ最強の生き方みつけたわ!」と言い、透き通るような目で私を凝視しました。
 妻の私が申すのは控えるべきかもしれませんが、夫は大層なイケメンです。三白眼に整えられたアーチ状の眉、小顔で鼻筋も通っており、背も百八十センチあります。私はその姿に見惚れて結婚したといっても過言ではありません。その夫の真剣な眼差しに、私の胸はドクドクと高鳴りました。居間のちゃぶ台に向き合って座ると夫は茶髪のミディアムヘアーをかきあげました。
「さっちょん。俺、小説家になるわ!」
「小説家?……」
「暇だったから店の本読んでたらさー。なんか俺にも書けそうって思ったわけよー」
「そう……」

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