小説

『神様、どうか』守村知紘(『駈込み訴え』)

 更にあの人は宮に集った大勢の市民を前に酷い暴言を吐いた。それはもう、単なる悪口ですらない。まるで自ら死のうとしているかのような、自棄になった、狂気の振る舞いだった。

 その一連の行動によって私はもうハッキリと、あの人はダメだと悟った。出来ることなら、お救いしたい。しかしあの人自身がそれを拒むのだ。自ら課した救世主と言う重すぎる肩書が、自分の予想以上に大きくなって、手に余るようになり、破れかぶれになっているのだろう。ボロが出る前に十字架に掛けられ、聖人として死にたいのだろう。

 あの人の目論見どおり、この宮での一連の凶行が、祭司長や長老達にあの人の処刑を決定させたようだった。

 私はそれを風の噂で聞いて、いよいよあの人の死が間近に迫っているのを感じた。そして他の誰かに奪われるぐらいなら、自分が引導を渡そうと決意した。驚いたことに、私はあれだけ蔑ろにされながら、これほどの醜態を見せつけられながら、まだあの人を愛していたのだ。

 あの人を自分の手で終わらせたいと想うのは、憎しみではなく愛だった。だってあの人は他の誰のものでもない、私の物だ。私だけが本当のあの人を理解し、それでも見捨てず、なんの見返りも無しに愛し続けたのだから。

 私が財を時間を体を心を命さえ捧げたのと違って、あの人は私のために、ちょっとも心を砕いてくださらなかった。僅かな時間も割いてもくださらなかった。それなら命ぐらいは、私がもらってもいいはずだ。

 ああ、ですが師よ。私は本当に直前まで、貴方を葬ることを躊躇っていたのです。貴方と私にとっての、あの最後の晩餐で貴方がやにわに立ち上がり、おもむろに私たち弟子の足を洗ってくださった時。私は貴方の恐怖と混乱と、そして孤独とを切に感じました。貴方は好きで死のうとしていたわけじゃない。その辺の人間達と同様に、本当は当たり前に死が怖いのだ。出来れば滅びたくは無いのだ。それゆえ、私たちに見捨てられたくなくて、縋りたいような想いから、急に足など洗いだしたのだ。

 そのとき私の胸に湧いたのは、まるで我が子を想う母のような、痛いほどの愛情でした。出来れば今すぐ貴方の前にひざまずいて、その手を取ってあげたかった。恐れることはないのだと、何百何千の兵隊が貴方を捕えようとしても、私が決してさせはしないと。例え救世主のメッキが剥がれて、ただの人となった貴方から、他の弟子達が全て離れて行っても私だけは傍に居る、決して貴方を裏切らず永遠に見放さないと、破滅に怯えるあの人を、強く抱き締めてあげたかった。

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