小説

『ヴィーナス』橋本和泉(『天女伝説・羽衣伝説』)

 かつてそこには、天女を妻にした男が住んでいた。数千年を生きることができる、それはそれは美しい天女にとって、その男の一生は、まるで吹いて消えてしまうマッチの火のようなものだった。その人生の中で、男は天女を愛し、天女も男を愛し続けた。やがて男が老い果て、死ぬ時が来たとき、未だに美しさを保ち続けていた天女は男の耳元に一言を残した。
「あなたのような人はいない」
 そういった天女を見て、男は満足そうに息絶え、塵とも霞ともつかない物へと朽ちていった。その時男は、400歳を超えていたという。

 
 天女に愛されれば、寿命が驚くほど伸びる。不老長寿のうわさが広がり、伝説の天女が姿を隠してからも、その地には人が集まり、村ができ、町ができ、そしてとうとう合併を繰り返し、特急の停まる地方都市にまで発達した。元々は男が天女を天に帰したくない一心で大事な羽衣を隠した、という伝説から「羽衣」という地名だったが、合併後に変更され、天女と書いて「あまめ」と読む。温泉には不老長寿のご利益、野菜や漬物にもご利益、毎年天女を決めるミスコンでは、グランプリを取れば祭りの山車に乗れ、役所や駅に「今年の天女」として飾られる。天女をまつった神社や祠はゆうに20を超え、天女をかたどった菓子が売られ、町のマンホールや看板にも天女が描かれ、昨今では天女をデフォルメしたキャラクターまで全国展開され始めた。ゆるキャラグランプリでは常に上位、熊本の熊とも競ったし彦根の猫とも競った。奈良の鹿とは友人関係を結んでいる。
 おかげで天女の街は今では海外旅行者も増え、立派な観光地になっていた。
 天女の街には、もちろん天女の夫であり、伝説の元になった男の墓もある。すでに行政の手が入り、大きく神殿のような社まで作られていたが、なかなかどうして、こちらの方は訪問客が少ない。天女の人気に比べれば、所詮ただの人間だという事か。
 そこにイギリスからの観光客がやって来た、カメラと大きなリュックを背負った、長身の男だ。立派な社の前に一人というのが最高にインスタ映えすると、自撮りと一眼レフでの撮影に明け暮れていると、足元の石に気付かず転んでしまった。バランスを崩し、その拍子に社の一角にある池に落ちてしまった。

 
 そして男は夢を見た、天女が1人、男が一人、仲睦まじそうに微笑み合っていた、男は涙を浮かべ、天女の姿はそれはそれは美しかった。

 
 男が目を覚ますと、おぼろげに、女の姿が見えた。女といえど、齢にして60をこえようかという老女だった。転んだ男を介抱し、目が覚めるまで傍についていたのだという。男は感謝し、なんどもお礼を言った。老女は微笑みながら去っていった。その顔に、男は見覚えがあったが、よく思い出せなかった。水に浸かったカメラは全滅だったそうだ。

 

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