小説

『つゆあけ』義若ユウスケ(『葉』太宰治)

 死のうと思った。なんとなくだ。思い立って、すぐにでもだ、今すぐにでもだ、と思ったのだけど、いったんやめにした。実家から古いじんべえが送られてきたのだ。私はちょっと着心地をためしてやるつもりで散歩に出ることにした。
のろのろと山のふもとや川辺を歩いてみたのだが、なにせ学生時代の、古い物だから、あちこち穴がいくつも開いていて思いがけないところから風が入ってくるのがかえって面白かった。
 もう日は落ちていたけれどつい楽しくなってしまった私は、そうだ蛍でも探そうと思いついて田んぼにむかった。去年のちょうど今ごろ、気まぐれにあぜみちを散歩した晩に平家蛍を見つけて驚いたのをふと思い出したのだ。
 七月十日の夕方に雨は、はたりとやんだまま、そのご四日もふらないとこをみると、どうやら梅雨は終わったらしい。今年の梅雨は台風のおかげもあって、たびたび虹を見ることができた。いい梅雨だった。そんなことを考えながら歩いていると、すぐ田んぼに着いた。
 モオオ、モオオ、と牛蛙がしきりに鳴いていた。大きな鳴き声に、夜が震えるようだった。あまりよく鳴くのですこし興味をひかれて、私は暗いあぜみちに立ちどまり、蛙の声に耳をかたむけた。
 どうやら二匹の蛙が会話をしているらしい。右手の田んぼの蛙がモオオ、モオオと話し続け、合間合間に、左手の田んぼの蛙がモオ、モオと相槌をうつのだった。
 しばらくじっと聞いていると、なんだか胸が甘ったるくなってきておかしかった。私は蛙たちの様子に恋愛の一場面を想像して、すっかり照れてしまったのだ。
「なんだか切なくなりますね」と声。
 ぎょっとして、見ると、いつの間にかとなりに大きな狸が立っていた。友だちの、タヌ・マゲドロリンチョ・ガジガジ・ガジダノスケウユカワシヨウヨウヨウ・オママママ・ハナゲタマゲタイミオビテキタ・ウハハハハ・ダユウ・キチノ助だった。
「なにを話しているのでしょう」
「おい、タヌ・マゲドロリンチョ・ガジガジ・ガジダノスケウユカワシヨウヨウヨウ・オママママ・ハナゲタマゲタイミオビテキタ・ウハハハハ・ダユウ・キチノ助、びっくりするじゃないか」
「おや、驚かせてしまいましたか。それは申しわけない。いま死んでお詫びを」
 そう言ってタヌ・マゲドロリンチョ・ガジガジ・ガジダノスケウユカワシヨウヨウヨウ・オママママ・ハナゲタマゲタイミオビテキタ・ウハハハハ・ダユウ・キチノ助は侍に化け、切腹してみせた。私はおもわず笑ってしまった。
「いいよ、もう。ね、それより蛍を見物に来たんだ。どうだい、一緒に」
 タヌ・マゲドロリンチョ・ガジガジ・ガジダノスケウユカワシヨウヨウヨウ・オママママ・ハナゲタマゲタイミオビテキタ・ウハハハハ・ダユウ・キチノ助はくるりと狸の姿にもどって、お供します、と言った。
「蛍はこっちです。さあ、行きましょう」
 ふわりと、あたたかい風がひとつ吹いて、私の背中を押した。