小説

『20歳の夏休み』菊谷達人

 凧もさすがに興奮のあとが隠せない様子だった。
「おれたちに、気がつかなかったのだろうか」
「完全に自己に埋没してたようだな」
 ぼくも凧も、あの部屋で受けた刺激からさめるまで、かなりの時間を要するようだった。
 そのとき、ドアの外から、
「源一郎くん、ごめん」
 ドアが静かにひらき、ほほえむ圭華が姿をあらわした。
「すみません。修行ちゅうとはしらなかったもので」
「ははは。修行ねえ。いちばん集中しているときだったので、わかっていたんだけどあなたたちのこと、無視しちゃった」
「しっていたら、遠慮したんですが」
「いいのよ。気にしてないわ」
 圭華は室内にはいってきた。ぼくはそのとき、彼女から伝わってくる目にみえない力に、ぐいぐいおされているのを意識した。自己暗示というのは、他人に対しても作用をおよぼすのだろうか。
「お風呂、つかってね。さっきは酔いつぶれて、おこすのが気の毒だったから」
「ちょっとぼくに催眠術、かけさせてもらえないですか」
 いきなりなにをいうのかとおもったら、凧がしゃっちょこばって圭華にそんなことをお願いした。
 てっきり、嫌がるものとばかりおもっていたところ、圭華は、
「かけて、かけて。あなたがいわなきゃ、あたしからいうつもりだったの」
 かんがえてみるまでもなく、日常から自己暗示の訓練をしている圭華に、催眠術の話は、疑似餌をみつけた魚のように、たちまちくらいつくのはあたりまえかもしれない。
 凧がやる気まんまん、両手をすりあわせた。
 凧のことだから、この暗示という分野においては、かなりつっこんだ練習をつんでいるのは目にみえていた。彼はまえに、催眠術で女をおとすことはできるかどうかを、試したことがあったという。彼からきいた話では、同じ美大生の女性とコンパでいっしょになったとき、彼女の腕の一部に指をあて、だんだんここが温かくなると暗示をかけたことがあるらしい。酒の肴ぐらいの軽い気持で臨んだ彼女だったが、なんども彼に温かくなると暗示をかけらているうち、本当にホカホカしはじめたのに気づいた。それからは体のあちこちも彼の言葉で温もりだし、彼女はしだいに彼の能力を認めるようになった。彼女がホテルに凧といっしょにはいっていったのは、その日の夜のことだった。あとでわかったところでは、じつは彼女のほうにも凧をよくおもうところがあって、もしかしたら暗示をうまく利用したのかもしれない。どうであれ、まんまと凧は、彼女のゲットに成功したのだった。きみを嫌っている女にもおなじ手が使えるだろうかとたずねたところ、おれの言葉をまじめにきいてさえくれれば、時間はかかっても、できるだろうと彼は自信をもってこたえた。

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