小説

『20歳の夏休み』菊谷達人

 大学の夏休みを、ぼくは凧一太とともに、遠い親戚筋にあたる、峯山圭華という女性のところですごすことにした。峯山圭華は、書道の世界では少しは名のしれた存在だということを、ぼくは母からおしえられたが、ぼくじしん美大生ということもあって、それをしるとにわかに彼女に興味をおぼえるようになった。これまで顔もみたことがなく、その名の印象から腺病質の、色白の佳人をおもいえがいていたぼくだったが、母から還暦をすぎたお婆さんよと無残にも告げられた。
 結婚歴はないらしく、現在もひとりで屋敷のような家にひとり、犬とともに暮らしているとか。「だけど若いころは、いろいろあったみたいよ」こちらがききもしないのに、圭華の奔放なまでの恋愛関係を、にやにやしながらにおわす母だった。あのひとの書道展をみにいったのは、たしか………。とおもいださなければならないほど昔のことで、最近は没交渉になっていたのを、突然むこうから電話がかかってきて、いろいろつもる話をかわしているうち、息子の夏休みの話がでて、男友達ふたりでどこかに旅にでたいといっていると話すと、じゃあ私のところにこないということになった。電話でのやりとりから、どうやら無聊をかこっているのがつたわってきたので、母も相手が女性とはいえ年配者ということもあり、宿泊代が浮くことも計算高く考慮にいれて、それならとぼくに打診してきたしだいだった。ぼくとしては、願ったりかなったりで、きけば彼女のすまいは都会から離れた緑の豊富な地域にあることがわかるやいなや、ふたつ返事で了承した。凧の意向など、あとでどうにでもなった。彼のことをよくしっているぼくには、断るはずかないとふんだが、結果はまさにそのとおりになった。
 凧は、大学にはいってからはじめた古武術を熱心につづけるうち、『気』というものの重要性におもいいたった。じぶんの気を全身にいきわたらせることによって、おもいもよらないパワーが発揮できると信じて、自己暗示の強化からやがて、催眠術の勉強をはじめるまでになった。相手に催眠術をかけて、無力化するんだと、凧は真剣な顔で僕に語った。あいにく武術にも催眠術にも関心のないぼくは、それよりも彼の、ひとつのことに凝り固まる探求心を面白くみていた。彼に、峯山圭華のことを話すと、案の定、多大な関心をみせた。彼にしても、めったに接することのない年配女性のひとり暮らす家に、いっしょに何日もすごせることは、ある種の興味をおぼえずにはいられなかったことだろう。ぼくさえも、母から圭華の存在をきかされた当初、なにかしらそこに、女の妖し気な秘密めいた世界の存在を、敏感にかぎとったほどだったのだ。

 その日は朝から、雨模様の空だった。駅からでてあるきはじめたぼくたちのうえに、はやくもぱらぱらと雨がおちはじめた。
 ふいに、車のクラクションが鳴った。みると、コンビニの駐車場に停めた車から手をふる、ひとりの大柄な顔の女性が笑顔をむけている。
「いらっしゃい。こちらよ」
 ぼくと凧は顔をみあわせた。肉付きゆたかな、愛嬌にみちたその顔は、母からきかされていたぼくのイメージを、たやすく打ち砕いてしまった。

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