小説

『二十日前から』坂入慎一

 実家の工場が焼けて、何もなくなった。家も、家族も、同僚も、職も、何もかもがなくなって消えた。だからきっと、最初からなかったんだ。本当は、そんなもの何処にもなかった。私自身も本当は何処にもいなかったんだ。
「嘘つき」
 女が顔をぐいと近づけて、目を見開く。私の全てを細大漏らさず見抜こうとするように、眼球がせり出してくる。
「本当はあるって知ってるくせに。そうやって嘘ばかり吐いている」
 気がつけば私と女は工場にいた。めらめらと全てが燃えている。全てを燃やして何もなかったことにしようとしている。
 炎の暑さで肌が焼かれ、息苦しくなる。家族と同僚も同じように苦しんだのだろうか。吸い込んだ熱で肺が焼かれながらも酸素を求めて口をぱくぱくさせる。熱い、苦しい、熱い。体が焼けていく感覚に喘いでいると、水に落ちた。それは海だった。二十億年前にたゆたっていた海。
 バクテリアしかいない海を私と女は垂直に沈んでいく。この海の何処かに元は私だったバクテリアがいるはずだが、見つからない。見つけてもきっと、それとはわからない。そのままずん、ずん、と沈んでいき、海の底に着く。光の届かない闇の中、女は私を海底に埋めようとなおも力を込める。
「嘘つき、嘘つき」
 口からあぶくを出しながら女が私を罵る。私も口からあぶくを出しながら「何もない、何もないのよ」と言う。
 口を開くと海水が口の中に入ってきたが塩辛くなかった。それは雨水だった。私は土砂降りの雨の中、公園で、女に押し倒されていた。
 この公園で女と再会してからどれだけの時間が流れたのだろう。二十分か、二十時間か、二十日か、二十年か。もう、わからなくなっていた。
 女を押し返そうと力を込めるが、やはり動かない。女が力を込める度に女の気配が消えていき、体が透き通っていく。女の体はもうほとんど透明になっていたが、それでも信じられないほどの力で私を押し続ける。
 透き通った女越しに雨が見えた。雨は女の体を透過し私の体に降り注ぐ。雨が、強く私の体を叩く。お前はここにいるのだと、何処にも行かないのだと言うように、強く私の体を打ち付ける。女はもう完全に消えてしまい、何処にもいなかった。けれど私の体はなおも動かず、何処にも行けず、雨だけがいつまでもいつまでも降っている。

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