小説

『二十日前から』坂入慎一

「二十万年前、あなたに助けて頂いた鹿です」
 土砂降りの雨の中、傘も差さずに深夜の公園で佇んでいた女は私だけを見つめてそう言った。
 公園を突っきり信号を三つ越えた先にコンビニがある。二十日前に勤めていた工場が火事で全焼して失業保険で食いつなぐようになってからはそのコンビニに行くときぐらいしか外に出なくなった。それ以外の時間はアパートで自分を陰干しするように生きている。
 アパートを出るときに雨は降っていなかったがコンビニを出たら土砂降りだった。コンビニに戻りビニール傘を買い、信号を三つ越えて公園を突っきっていたとき女から声をかけられたのだ。
「鹿」
 女の声は雨の中でもよく通ったが私の声は雨音にかき消されてしまい自分でも何を言ったか聞き取れない。女は黙ったまま雨越しに私のことを見ていたが、やがてふらっと倒れるように歩き出し雨の中に消えていった。女は私のアパートがある方に向かって歩いて行ったので、その後に続くよう私も歩き始める。
 アパートに着くと女がドアの前にしゃがみ込んでいた。私が来たことに気づくと女は立ち上がり、脇にどいた。私は鍵を開け、中に入る。女も中に入ってきた。
 ワンルームの何もない部屋。女は部屋に入ると真っ直ぐ窓に向かい、外を眺めた。雨だけの景色を見終わると窓に背を向け、しゃがみ込む。まるで最初からそこが女の定位置だったかのようによく馴染んでいた。
 私はコンビニの袋から菓子パンを一つ取り出し、お供え物のように女の前に置いた。それからコップに水を注ぎ、菓子パンの隣に置く。女はそっと手を伸ばし、菓子パンを取り、袋を開け、一口頬張った。
「二十万年前にも鹿っていたの?」
 私はずっと気になっていたことを訊いた。女は菓子パンをもう一口かじり、水を飲む。
「鹿ではなく、鹿のような生き物です。鹿の祖先、のような」
「私も鹿だったの?」
「いえ、人です。人の祖先、のような」
 女は菓子パンを二口食べ、水を飲む。また二口食べ、水を飲む。それを繰り返しているうちに食べ終わる。女は菓子パンの袋を綺麗に折り畳むと横にそっと置いた。それから横を向き、壁を見て、天井を見上げた。雨の音が強くなっていった。
 私は女の横顔を見て、何処かで見たことがある気がした。女の見上げた顔を見て、二十年前に通っていた中学のクラスメートであることを思い出した。
 女は中学の三年間、ずっと私の前の席にいた。

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