小説

『偶景と旅する男と』もりまりこ(『押絵と旅する男』)

 薄茶色の虹彩がまるで義眼のようにみえた。けれど、目が何かや誰かに出会ってしまうってことは、もうすでにおしま
いを孕んでいることを栞は予感した。

 男がしきりに窓の外を見ろというので、みてみた。
 目に飛び込んできたのは、青色に染まったサクレクール寺院みたいな塔だった。塔のいちばん尖ったところだけが、白く光りが差している。寺院の全体を包みながらそこに続く空は、緑が隠されたような青だった。
 モンマルトルの丘に見える辺りが、深い緑の樹々に囲われている。
 停電の後、スイッチバックが狂ってしまったのか、この電車がどこを走っているのかわからなかった。

 朝日まで射していた。
「これを、蚤の市で見つけました時には、私も連れ合いを亡くして、日々が遠いっていうのか、病んでいましてね」
 そういうと胸のあたりを指さした。たぶんこころを無くしていたと云いたかっただろう。
「出会ったのも縁だと思いましてね。買い求めましたよ。ただ購入者の方にお願いですという、額の中の主からの手紙がついておりました」
「額のあるじ?」
 白髪交じりの顎鬚に指をやると、「おかしな話でしょ。正気を失うってのはなかなか面白い出会いも連れてくれるもんでしてね」
 初老の男は話しながら、生気が戻ってきたかのようにいきいきし始めた。
「その手紙には、いつでもいいです。車両の外を見てみたいから旅をさせてくださいませんか? って綴られていましてね」
 栞はその額がみたくてたまらなかった。ただ確かめてみたかったのだ。
 もしよろしかったらって額のほうに視線を放つと、それを見る時は肉眼じゃだめなんですよと云って、男はジャケットの内ポケットから眼鏡を取り出した。
 それはあの<遠目がね>だった。
 額の中には、<みらーじゅ雑貨店>から盗まれた郷田蜃気楼がいた。
 郷田と邂逅した。予感がどこから始まっているのかわからないぐらい、平然と郷田はそのただなかにいた。
<遠目がね>でその額を覗くと、あの日の郷田とその隣にはあの時にはいなかった女がいた。
 彼女がエッフェル塔のセーヌ川沿いにあるメニルモンタン地区で暮らしているから店を閉めて、逢いにゆきたいんだと云ったあの日。それは、栞が衝動的に<遠目がね>を逆さにして覗いた数分前のことだったけど。その記憶がよみがえってきた。

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