小説

『瓶詰ノ世界』北村灰色(『瓶詰地獄』)

 ガラスに手のひらを押しあてる。歩道で炎上する自動車の赤い色、車道で綺麗な白線を愛撫する少女の紅く染まった水玉ワンピース。永遠の不穏な夕暮れ、置き去りにされた犬猫死体から流れでる静脈或いは動脈血の赫。
 灰色のカンバス上で繰り広げられる惨劇、誰か彼らを助けて!
 そんな心の声が届くはずもなく、歩道にはキャデラックの澱んだ影が、車道では車輪の下に水玉ワンピースが、そして犬や猫は蒼ざめてゆく。
 手を差し伸べることもなく、本性を隠すこともなく、傍観或いは紅潮する、裸の傍聴席にて笑みを零す人々。スマートフォンの唸る不協和音、ヘッドフォンから漏れる爆音が、夕空に陰鬱なクリームシチューのような雲を模り、極彩色で象られた2tトラックを引き寄せる。そう、ヌーディストに占拠された十字路の傍聴席に防弾チョッキ着用の義務など無く、空虚な彼らを守るものは謔言のような法と正義だけだったって。
 4月の夕景と夜景の狭間、そこには肌色も暖色もなくて、其処にあるのは蒼とアカイロが交りあった無言と無音の風景。

 赤、紅、赫そして蒼。私の眼に映る世界は残酷で鮮烈で、私は嘗てこんな世界で何十年も生きていたのかと慄然する。
「つらさもなく、透明で甘い此処はどう?」
 天使の一人が私の耳元でそう囁いた。アルトの甘く儚げな声、その声は私に針を刺したという事実を忘れさせるような、そんな響きを湛えていた。
「私たちはサイダー瓶に封じ込められた天使。私たちが封じ込められた瓶を選んで開けたから、あなたも此処に閉じ込められたの。此処から出られるかどうか解らないけれど、天国や現世よりは綺麗で、透き通った世界よ」
 そう言うと、天使は背中を向け、私から離れていった。
 私が此処にいる前の記憶。それは何故か薄れているけれど、針を刺される直前に、何となくサイダーを買ったような気がする。翡翠色のラベルに包まれた、限りなく透明な瓶の炭酸水を。
 怪奇小説、それともSF映画のようなこの状況。けれど、戸惑いもなく恐れもなく、汚れきって歪みきった地上で生きるより、この美しい水中で浮遊している方が幸福なのではないかと思えてくる。
 シャボン玉のように儚く膨らんでは弾ける無数の泡玉、唇に触れる澱みのない甘さ、目に映る天使の柔らかそうな白い羽と、それを撫でるサイダー水の微かな揺らぎ……。
 暫らくすると、天使達がざわつき始め、槍のような武器を手に浮遊していった。天使達の囁きを盗み聞きすると、どうやら空いた瓶の入り口に侵入者が現れたようだ。
 見上げると、液体に浸ろうとしている、どす黒い塊が見える。さらに目を凝らして見ると、鋭い歯、漆黒な目、長い触覚が蠢いている。

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