小説

『人魚とダンス』戸田鳥(『人魚姫』)

 銛を持って家へ戻ると、階段で父とすれ違った。
「あの人魚さん、ぶじ海に帰りなさったか」
 父の言葉に、僕は固まった。
「そりゃあだって、びしょ濡れで銛を持ち歩いてる娘なんて、人間にいないだろ」
 ここらの海は昔から人魚と交流があるんだと言う。
「俺の若い頃は三人に一人は人魚を拾ったもんだ。最近は数が減ったのか聞かなくなったけど、まだいるんだとわかって嬉しかったねえ」
「だったら教えてくれたらいいじゃないか」
 父は僕の顔と銛を交互に見て、にやにやした。
「若い者は知らんだろうが、パン屋の吉田さんちの婆さんな。あの人はもとは人魚だったんだ。吉田さん家に現れた時は、町中の男が羨ましがったらしいぞ」
 父は高らかに笑いながら階段を下りていった。
 僕は自分の部屋で、銛の置き場所に迷った。床に立てかけるのは憚られた。人魚の胸を貫いていた、彼女の一部だ。まだ生々しい。僕は銛を持ったままで床に寝転がった。銛を眺めながら、人魚に埋もれていた部分にそっと触れる。オパールを思わせるあの眼を思い出す。
(胸に穴が開いたままでも困らないんだろうか)
(泳いでる間に靴をなくしたりしないだろうか)
(次はヨーロッパまで泳いで行くんだろうか)
 次々浮かぶのは心配ばかりで、自分が可笑しくなった。
 僕は目を閉じて、心配するかわりに、泳ぐ人魚を想像した。足が消えて、下半身を鱗に包まれた人魚。彼女の胸の穴からはぶくぶくと気泡が出て、泡が海面へと上っていく。光へと向かう泡とは反対に、ひれをなびかせ、暗い海の底へと潜っていく人魚。彼女を追う僕の視線は、でもそこで、無数の泡にさえぎられてしまうのだ。最後にちらりと振り返った、ふたつのオパール。
 きっとこの先、幾度も夢に見るだろう。

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