小説

『人魚とダンス』戸田鳥(『人魚姫』)

 人魚は靴屋の袋をかかえてほくほくと店を出たが、車の前に来ると乗るのを渋った。
「やあよ。これに乗ってると気持ち悪いんだもん」
 とはいっても徒歩では帰れないので、途中、堤防に寄り道することを提案した。ひと気もないところだから、ハイヒールで歩く練習をすればいい。
 堤防に着くと、人魚は体育座りして靴を履こうしたがうまくいかない。店では店員が靴を押さえていてくれたが、自分ひとりだとつま先を入れようとして靴を倒してしまう。かかとがなかなか収まらないのだ。靴べらも買っておくべきだった。そのうち人魚がキーッと変な声を出し始めたので、僕は靴を固定しつつ、彼女が手をつくための台になる。
 格闘の末にようやくパンプスを履くと、人魚は危なっかしい足取りで堤防の上を行ったり来たりを繰り返した。靴のベージュは彼女の足の肌色になじみ、すらりとした足を引き立てた。僕は堤防に座って、人魚と海を交互に眺めて過ごし、昼になると彼女を残して商店街に戻った。昼食に、ちょっと迷ってフィッシュバーガーを買う。魚のフライを食べるかどうか自信がなかったが、人魚はふんふんと匂いを嗅いでからぱくついた。
 もうふらつかず歩けるようになっていたし、空模様が怪しくなってきたので、帰って休んではどうかと人魚に聞いた。
「まだよ。踊れるようになってからよ」人魚は指についたタルタルソースを丹念に舐めた。
「明日には薬がきれるから海に戻らなくちゃ。時間がないの」
「明日まで?」
 そういえば数日の契約だと言ってはいたが。
「変身の薬を飲むのはこれが初めてだから。用心のために、初回は最低限の量しかもらえないのよ。アレルギーとか拒否反応とかあるじゃない? 回数を重ねてだんだん期間を延ばしてもらえるの」
「はあ……きちんとしてるんですね」
「ここが現代日本なら、あっちだって現代海中なのよ」
 人魚はオレンジジュースを飲み干すと、堤防の奥のほうまで駆けた。途中でいったんよろめいたが踏ん張った。初めてのハイヒールにしては上手な走りだ。人魚は海の方を向いて立ち止まると、ひとりで踊り始めた。たぶん踊りだろうと思われた。というのは、彼女の動きはどうもダンスらしくは見えなかったからだ。うねうねと体をくねらせる動きは、美しい姿かたちには全くそぐわなかった。でも海中でのダンスとはこういうものなのかも、と僕は考えた。陸上生物の僕には理解できないだけなのかもしれない。海中生物の動きを真似ているとか。考えを巡らしていると人魚が動きを止めた。
「思ったとおりに踊れない」と僕に向かって悲しげに言った。
「昨日見たように踊りたいのに」
 聞けば、部屋のテレビでなにかの踊りを目にして、それを真似たらしい。一体どんなダンスを見たのだろうか。
「一度見ただけじゃ難しいですよ。最初は簡単な踊りにしたらどうです」

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