小説

『天狗』上原芽久美(『彦一ばなし』)

「ひいてますよ」
 と声がする。振り返ると、いやに白い顔の女が、このいかつい肩に手をおいている。
「ひいてますよ、ほら」
 と、やはり白い指をひらひらさせて、水面を指す。目も鼻もこれといった印象もないのに、唇ばかりが赤い。
「ひいていようがいまいが、関係ないだろう」
 驚愕をこらえ、ようやく振り絞ってだした言葉というのに、女は、ただただ糸の先を気がかりそうに追いながら、
「そら!そら!うきが、ひくひくいって」
 と、すっかりこちらには上の空で、
「ほらほら、はやく、逃げてしまうから」
 と、白い手ではたはたと肩を叩いてくるのだった。

 唾を、飲み込んだ。女はまずいのだ。手の触れた肩から、とびつきたい衝動がぐるぐると頭をもたげる。そもそも、天狗であるがゆえに持て余すほど好色な自分だ。池端で不意に嗅ぐ生臭さにさえ、折々咲く花の色にさえ、カアと沸き立つ欲情を、なだめ、封じこめ生きている。全ては、天狗と人に知れぬよう、俺が「俺」だと知れぬよう、それだというのに、不意に現れたこの女が無防備に、早く早く、と急かしてくる。ほらほら逃げると、肩をぎゅうと握りしめてくる。

 抱きしめてもいいだろうか。抱きしめて、抱き合って、何が何やら分からぬほどに絡み合い、上か下かも俺か女かも、わからぬくらいに乱れる、いつ終わるとも知れぬ快楽の渦を思うと、欲情と他に、わきあがる熱情。

 身を破いて出てしまいそうな欲望を断ち切る様に、俺はぐっと釣り竿をあげた。

 先には、黒い大きな鯉がかかっていた。
 途端、女はギャアともキイともない叫び声をあげた。
「なんて大きい、鯉よ!鯉だわ!」
 女は、釣り上げられた鯉のもとに駆け寄り、でらと光る鱗にふれては、びちびちもがく魚体に嬌声をあげた。
「ああ、こんなに大きいんでは、この魚はこの池のヌシかもしれない」
黒い鯉の周りを、女は己の白さをちらつかせながら、寄ったり離れたりをしばらくすると、不意にアハハハ!と一声大きく笑った。そして女は、鋭くこちらに向き直り、
「あなた、この鯉、逃がすんですか、それとも」

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