小説

『桜の下を駆け抜けて』中江田江(『桜の森の満開の下』)

 多分、人間は、どうしたって過去の方を見てしまうのだろう。目の前に生き生きとした美しい花があっても、そこに散々苦しめられた雪の幻を見てしまう。
 名残雪を踏みつける。それはもちろん桜の花で、冷たい水を染み出させる事もなく、汚れて地面に張り付いた。
 僕は妻をおぶって歩いた。桜の真下を選んで歩いた。頭上ではざんざんと、桜の枝が揺れている。桜の花びらが降ってくる。
 妻はまだ、何も言わない。眠っている訳じゃないのは息づかいで分かる。
 僕は、妻は絶対に何か文句を言ってくると思っていた。きっと文句を言い募って、花見を台無しにするのだと考えていた。
 けれど、彼女はずっと大人しかった。
 今だけの話じゃない。今朝からずっと、花見に誘ってからずっとこうだった。
 僕は急に、妻が哀れになった。いじらしくて、可哀想で、どうしようもなくなってしまった。とにかく振り向いて、その顔を見ようとしたその時。
 僕は首を絞められた。
 背後から両手で絞め上げられた。喉が潰れて、げぇっと鳴った。
 息が苦しい。額が膨れている気がする。押さえ込まれた血管の拍動が頭に響いてパニックに陥りそうになる。声が出せない。振り返ろうとしたら、首に爪を突き立てられた。
 振り払おうにも僕の腕は妻の足を抱えていた。
 でも、僕の首を絞めているのは妻なのだ。
 絞める力は弱まらない。僕はカッカッと喉を鳴らしながら、無意識に時計塔へ目を向けていた。
 鏡張りの柱に、僕と妻の姿が映る。
 妻は笑っていた。
 満開の桜を背景に、黒い髪を冷たい夜風になぶらせて。
 ふっくらとした白い頬を紅潮させて、白い歯を輝かせながら、楽しくて仕方がないというふうに。
 元気だった頃の妻が笑っていた。
 僕の首を、白魚のような指で絞めながら!
 気付けば背負っていた、老木のようにごつごつと乾いた体は、瑞々しくて柔らかい、健康的な肢体に代わっている。酷い体臭も死臭も消えて、ほのかな花の匂いが漂ってくる。鈴を転がすような声さえ聞こえた。悪戯をしているような笑い声。だけど首を絞める力はまったく衰えない。

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