小説

『桜の下を駆け抜けて』中江田江(『桜の森の満開の下』)

 みんな笑顔だった。みんな彼女の事が好きだった。
 妻となってからも、彼女は優しいひとだった。僕の両親が事故に遭い、父が亡くなり、母が片足の自由を失った時、真っ先に母との同居を選んだのも妻だった。早くに親を亡くした所為だろうか。僕の親なら自分の親も同じだと、嫌がりもせずに母を助けてくれた。
 僕も、母も、妻に深く感謝していた。僕には勿体のないひとだった。
 そんな彼女が、病気になった。記録的な大寒期の、冬の事だった。
「そんなに心配しなくても、きっとすぐに良くなるよ」
 病気が見つかった頃、顔色を悪くする僕と母、友人達をよそに妻は笑っていた。きっと強がりではなかったはずだ。彼女は体が丈夫だった。心配する僕らもまた、きっと病気は治ると信じていた。こんなに素晴らしいひとが、病でまだ若い命を散らすなんてあるわけがないと思っていた。
 けれど、彼女の病気は着々と進行していった。
 妻の顔色は日増しに悪くなり、打たれる注射の数が増え、処方される薬が増え、それでも快方に向かわない。
 とうとう、入院することになった。桜のつぼみも膨らまない、寒い春の事だった。
 それでもまだ、僕は妻の体が良くなると信じていた。二十四時間プロの看護を受けたなら、きっとずっと治りが早まるに違いない。そう言って僕は妻を励ました。家の雑事から離れて治療に専念すれば、きっとすぐに良くなるのだと。
 僕は毎日、仕事帰りに妻を見舞った。母も悪い足を庇いながら、洗濯物の受け渡しなどを手伝ってくれた。友人達も、妻を元気づけようと何度も見舞いにきてくれた。僕らは妻の為に頑張っていた。
 それなのに、妻の病気は一向に良くならない。薬は病気の進行を抑えるだけで、治すどころか副作用で妻を苛んだ。手術は妻の体力を削るばかりだった。主治医は何度会って話しても、似たような事しか話さない。
 妻は段々、苛立ちを露わにするようになった。
 見舞いに来る時間が遅いのを詰られ、苦しいばかりの治療の愚痴を繰り返し、僕の励ましを強い語調で遮った。すぐに我に返って謝ってくれたけれど、それも最初の内だけだった。苛立ちは八つ当たりに代わり、あの優しい妻とは思えない、攻撃的な暴言が彼女の口から出るようになった。取って付けたような理由や実のない妄想で、妻は周囲の人間を罵った。
 僕は役立たずの偽善者と叫ばれ、主治医は治す気もない金の亡者と罵倒され、母は癇に障る障碍者と誹謗された。
 醜い言動に引きずられるように、妻の容貌も急速に衰えていった。
 あの綺麗だった黒髪は傷んで、色が抜けて縮れてしまった。透き通るようだった白目と歯が、年老いたみたいに黄ばみ始めた。体は痩せ細り、弛んだ皮膚は乾ききってひび割れのような皺がたくさん出来た。身嗜みを整えるための鏡は叩き割られ、見舞いの花は毟られて汚らしく潰された。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10