小説

『常春の国』金子葵(『桃花源記』)

 タクシーの扉には、桃の花の絵が豪華絢爛に描かれていた。
「ねえお客さん、ドアの桃の花見ました?この春限定なんですよ。」
 愉快そうに話す運転手に曖昧にうなづきながら、ツキコは気忙しく携帯電話を操作していた。端正な黒のスーツとバッグがよく身に馴染んでいる。
「あっ、ここで止めて下さい。」
 車付きのある門の前でタクシーは止まった。高い塀の向こうには、生い茂る庭木の姿が見える。電子マネーで支払いを済ませ、降りるドア口で着信音が鳴った。
「はい野上です。・・・え、またですか・・・」
 彼女の青白い顔がいっそう翳りを見せた。
「・・37度6分?・・いえ、主人は無理なので私が行きます」
 電話を切ったツキコは、走り去るタクシーをぼんやりと見つめた。

 
「では、これで書類はすべて揃いました。」
 ツキコは堅い微笑みを浮かべ、漆黒に光る座卓の上で書類を揃えた。広い座敷で、彼女の背側には縁側と立派な庭木が見える。対面に座る和装の老婦人は、朗らかに笑っていた。着物の上品な鶯色が白髪によく映えている。
「ああ、よかったわ。色々ありがとうね。」
「いえ、こちらこそ。」
「資産のことは全部主人に任せていたものだから・・ほんと、あなたがいないとどうなっていたか。」
「いえ、こちらとしましても・・」
 言葉を遮るように、座卓に置かれた携帯電話が鳴った。着信と共に、画面に赤子の顔が映し出される。ツキコは慌てて電話を切った。
「すみません、失礼しました。」
「あら、かわいい。お子さん、おいくつなの?」
「この間1歳になりました。」
「いいわねえ。でもお仕事あって、大変でしょう。銀行なんて随分お忙しいだろうから。」
「いえ、手際が悪いばかりで・・」
 少し俯いたツキコを見て、老婦人は立ちあがった。

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