小説

『ベーカリー ヘクセンハウス』鳩羽映美(『ヘンゼルとグレーテル』)

それから私は、数日に一度、そのパン屋を訪れるようになった。
相変わらず朝は起きられないから訪ねるのはいつも夕方で、売れ残ったパンを買う。
いつも安くしてもらって申し訳ないなと思っていたら、「あんたタダ飯食らいみたいなもんなんだから、店じまい手伝いな!」と言われ、簡単な掃除なんかを手伝うことになった。「動きがのろい!」と怒られながら。
一緒にいるとき、老婆はだいたいその日の体調のことだとか、新しいパンのアイデアだとか、芸能人のスキャンダルに対する意見だとかをほぼ一方的に喋ってくる。
でも時折思いついたかのように、「あんたどこに住んでるんだ」とか「実家暮らしなのか」とか、「その野暮ったい髪はどれだけ切ってないんだ」「体重は何kgなんだ」と、無遠慮に質問を投げかけてきた。
私はそれに正直に答えたり、嘘を伝えたりする。
嘘というよりは、「相手の機嫌を損ねずこちらも傷付かない回答を探すゲーム」に近い。
でも老婆は私の回答に対して感想を述べたり深く追求したりすることはせず、いつも「ふーん」と興味なさそうに相槌を打つだけだった。
老婆は明らかに言いたいことを言っているから答え合わせの必要がないし、私の回答の答え合わせをする気もない。
それは、とても助かることだなと思った。

その日は、店の扉を開ける前からパンの焼ける匂いが漂っていた。
聞くと、最初に会った日に私にくれたあの丸いパンを、改良してみたのだと言う。
「見た目が悪いのかあんまり売れなくてねぇ」と言って渡されたそのパンは、私が食べたときとは違って表面に切れ目が入っていて、そこにカスタードクリームと焼き色のついた林檎が可愛らしく加えられていた。
差し出されてひとくち食べてみると、クリームと林檎の味が口いっぱいに広がった。
「どうだい?」
「あ、おいしいです。けど」
「けど?」
「……あの、改良する前のパンも、おいしかったです」
「……ほう」
「あの、これがまずいわけじゃなくて、これも、可愛いしおいしいんですけど」
でも……と言ったきり、次の言葉が出てこない。私はゆっくりと、初めてこのパンを食べたときのことを思い返した。
「初めてこれを食べたときのほうが、なんか、じわっとした?っていうか……こう、じわじわ優しい味がしたっていうか。だから、クリームと林檎、いらないんじゃないかって……」。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11