小説

『鬼灯提灯』橋本沙雪(『羅生門』)

 一人の男が、京都の町、騒がしい市場を歩いていた。腰には妖しく黒光りする鞘に収められた太刀が提がっている。とぼとぼと進む彼を、道往く人は無意識に避けて歩いた。
 男は検非違使庁の役人である。京都市中の平和を保つための仕事というのは名ばかりで実際は、多大な給料を貪っている、肩書だけは立派な愚人の集まりである、というのが市中の人々らの考えであった。
 しかし、男は違った。ぶつけようのない若いエネルギーを正義に使うべきだとして、鼻息荒く役人を志した。そんな彼を待っていたのは、ぐうたらとやる気のない役人達で、いささか気勢を削がれながらも、今日こうして見廻りに乗り出した。
 ところがどうだろうか。京都市中は見渡す限り平和で、起こる諍いといえば、せいぜい値段交渉の口喧嘩くらいである。それも最初は悠々と止めに入ったものだが、どうやら彼らはそんな少しの寸劇を楽しんでさえいるらしく、邪魔をするな、と逆に怒鳴られてしまう始末であった。
 そろそろ気が滅入ってきて、男はとうとう道端に手ぬぐいを敷いて腰を下ろした。刀の隣に紐でくくってあった水筒の中身を少しずつ口に含み含み、騒然とした商店街を眺める男のくぼんだ瞳は、さながら仕事をなくて将来に希望のもてぬ下人のようであった。
 ふいに男の瞳が、獲物を見つけた鷹のように残忍に、ぎらりと鋭い光を放った。にわかに立ち上がったかと思うと、手ぬぐいや水筒には目もくれず、こそこそ裏路地を往かんとする怪しい人影に近づいていく。
 男が、「おい。」と声をかけると、人影は振り向こうともせずに、一目散に駆けだした。男も怯まずに、それを追う。市場の喧騒がどんどん遠のいていく。ついに、二人分の足音だけが、人気のない路地にこだました。
 男は息を切らしながら、逃げ続ける人影に向かって刀の鞘を投げつけた。人影が前のめりに転んだのを見、しめた、とばかりにすかさず腕をひねり上げる。荒い息を繰り返している顔が、路上に設置されている提灯によって明らかになった。若い男である――ちょうど、この役人の男と同じ年齢くらいに見える。右頬ににきびの潰れた痕があった。
 腕を抱えながら、乾いた唇をなめ、「おまえはさっき、市場で干し肉を盗んだろう。」と問い詰めると、男は怪訝に眉根を寄せ、「そんなことはするものか。せいぜい、お役人様の見間違いであろう。」とせせら笑った。
 役人の正義心に火がついた。絶対に見間違いなどではない。この男は、嘘をついている。深い猜疑心と憎しみが、火にかけられた急須のごとく、ふつふつと煮えてくる。
「貴様、名を何という。」
「交野五郎。善良な一市民さ。……いや、待てよ、交野平六だったかも知れないな。」
 男はくすくすと笑った。役人は怒りに躯を打ち震わせ、刀の身を男の首に突きつけた。
「役人をからかうとどうなるか、庶民の方はよくご存知ないようだ。」

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