小説

『キツネに嫁入り』高平九(『狐の嫁入り』)

「ええ。さっきはごめんなさい。はじめての宿だったから神経質になっていたんだわ。もう大丈夫……なんならもう一泊していく?」
「仕事はどうするんだよ。それに私も遊んでばかりはいられない。戻って再就職先でも探すとしようか」
「そう……しょうがないか」と言うと、妻は立ち上がって浴衣の紐をほどいた。春の光を浴びた裸体が現れた。「どうする?」妻の声が色っぽく湿り気を帯びる。
「いや、やめておこう。そろそろ現実(うつつ)に戻らないとな」
 妻は顔をくもらせて「そうね」と言うと、観念したように身支度をはじめた。
 宿を出るときも女将の姿はなかった。もちろん、白い服を着た背の高い男の姿もない。チョウチョウもいなかった。妻はなぜか「宿代はいらないそうよ」と断言したが、そうもいかないだろうと誰もいない玄関にそれなりの礼を紙に包んで置いておくことにした。
宿を出ると昨日と同じ草原の中の一本道である。くねくねと何度も曲がったが迷いようもない。やがて周囲を田んぼに囲まれた道にやってきた。
「不思議な体験だったね。チョウチョウに誘われて宿に泊まるなんてね」私が言うと、
「ほんとね」と言って妻がふいに立ち止まった。
「どうした?」
「残念だわ。あたしあなたのこと気に入っていたのに。でも、仕方ないわね」
 妻がさびしそうに言うと視界が急にぼやけて次に焦点が合ったとき、目の前の女は妻ではなかった。宿の女将が言った。
「あたしたちここから先には行けないのよ」妻の服を着た女将がゆっくりと後ずさる。
「妻は、妻はどうした?」
「あの人はあたしたちの国に嫁入りしたの。あなた方をここに連れてきた男がこれから亭主になる。あなたもあたしの亭主になれたのに。残念ね」
 女将はそう言うと、くるっと身を翻して獣の姿で走り去った。
 わたしは必死にあとを追ったが、やっとたどりついた小さな川の岸に礼金を入れた紙包みを見つけただけだった。

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