小説

『ケテルの羅針盤』柘榴木昴(『裸の王様』)

 そして開け放たれた鋼鉄の門扉のごとし私のコートは、その裏地にレースとチャームにあしらわれた美の世界を構築していた。白いレースを縦横無尽に走らせ、きらきらと夕日をあびてイミテーションの宝石が光る。そしてもちろん股間には大きなダイヤをあしらった指輪が嵌っていた。本物ではない。だが、男の本質であるペニス(あるいはぺーニース)を宝石で飾るこの意図、ぜひ見習っていただきたい。恐縮していただきたい。このような発想、行動力をぜひ称賛していただきたい。股間はじつはすでに完成された宝物である。それをイミテーションで飾る。この無作法は名画を尻に敷くに等しい愚行。だがその一方でその罪悪感は背徳となって相手の羞恥をかきたてるだろう。屈辱であろう。私の珍坊の指輪をさぞ外したかろう。だがそうはさせまい。さっとコートを閉じる。完璧なタイミングだった。相手が二度まばたきするのを待っていた。金の玉と延べ棒と、安っぽいガラス玉のマリアージュを見送る視線を断ち切ってやった。私は解放感と勝利への確信で高揚しきっていた。その直後にまたも敗北の暗黒に垂直落下するとも知らずに。
 男がコートを、いやにゆっくりとまくった。パンパンに膨らんだジャージ地のズボン。一気に下ろすと、下着から奴の黄昏がボロンとあらわれ、さらにマーブルチョコが飛び散った。
 股間からマーブルチョコ!
 私はまたも膝から崩れ落ちた。かろうじて倒れ込むのは防いだ。男としての矜持がそれを保ったのだ。倒れてしまえばそれは敗北者ではない。脱落者だ。リングから降りてはいけない。私は、私は……。
 マーブルチョコを一つつまんで口にほおばる。甘くて懐かしい味がした。
 エレガンスより、ノスタルジイ。真に人を動かすものは常に、金や豪華さではない。それはあこがれを生むが同時に支配をも生む。人のこころを震わせるものは、なんてことはない思いやりであり優しさだった。まさに損得より尊徳だ。高級ディナーより自宅ですする味噌汁の方が安心を得られる。そういうことだった。ああ、妻の、母の味噌汁が恋しい。
 マーブルチョコを噛みしめる。先鋭化された私のこころにまろやかな甘みが滋養を注ぐ。そうだ。私は挑戦者だ。謙虚な姿勢と固い向上心でもって挑まなくてはならない。

 だがそれから彼に会うことはなくなった。私はいてもたってもたまらず、近所の交番で聞いてみた。
「このあたりで股間から花やらチョコやらを出す男が出没したと聞いていたが」
 あーそうですねと事件が起きなくて退屈そうなおまわりが答える。
「たしか、もうつかまりましたよ。先週だったかな。なんでも女子高生に逆に張り倒されたとかって」
「なんと」
「あ。ひょっとして娘さんか誰か、被害にあわれましたか」

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