小説

『ケテルの羅針盤』柘榴木昴(『裸の王様』)

 ほんとうの雅は日常や風情の中にはない。茶室が異空間のように、美術館が静謐なように、切り離された空間に洗練された優雅はあるのだ。
 例えばフェルメールの「牛乳を注ぐ女」。たとえ日常のワンシーンでもキャンパスに切り取ることで、そして超絶技巧でとらえることでその美は永遠に釘付けされる。例えば「逆さ富士」。あれは静まる水面に映る美しさが核ではない。湖面に尊大な富士が捕らわれていることこそが、こころ湧き立たせるのだ。悪代官の企みが防がれ、ただの下手人に成り下がったかのようなカタルシス。残忍な王がシェヘラザードの紡ぐ千の物語に忘我するような、してやったり感。真の美しさは感嘆以上のものを心にもたらす。
 美とは閉じ込められることだ。そして閉じ込められたものを堪能することだ。
 区画された空間。そう、例えば服の中。おそらく子宮に匹敵する最小空間の秘匿の美。まさに秘すれば花。閉じ込められたからこそ秘宝なのだ。暴かれ得ぬからこそ伝説なのだ。
 服の中。今、私のトレンチコートの中は素っ裸だった。富士にも負けぬ股間の高冨士。もちろん私は変質者ではない。むしろジェントルマンだ。ロングコートはアルマーニ、帽子はブルガリで靴もフェラガモだ。素っ裸といったが外からはばれないように、靴下もはいて、襟元もカモフラージュされている。コートを閉じれば宮勤めとも見受けられる装い。
 このように客観的に私は自身を見つめ、電車の中で化粧するような女性よりかは随分見栄と体裁を気にかけ、身だしなみに注意している。だがそれはかりそめ。じつは秘中の花は常に絶賛開花宣言。このギャップ。枯れ木にとまるウグイスのような、荒野にかかる虹のようなきらめき。これはもう粋であろう。
 誰にも迷惑をかけなければよいではないか。春先によく登場する、乙女たちにおのが竿を見せつける一般的な変質者とはわけが違う。そんなぶしつけはしない。裸に一枚コートをひっかけ、誰にも気づかれないままぶらりと散歩する。
 だがいつも気持ちはピンと張り詰める。歩行はもちろん呼吸にすら気を付ける。どう気をつけても歩けばペニスがコートの内側にこすれる。生態学的に快楽の波が私を襲う。もちろん内心はよがり狂いたい。だがそんな痴態をさらせば周囲の人間が悲しむだろう。そう、私は世間のため、社会のために熱い吐息をぐっとこらえる。静かに、まさに鶴のごとき歩みで町を歩く。まるで悟りを開いた禅僧のようである。
 ドトールでコーヒーを頼む。人の少ない昼下がりであってもオシャレなカフェはいつでも人気だ。カップをハンカチでくるみ受け取る。万が一熱くて取り落としたりしたら大変だ。この緊張感。まるで国際エージェントか逃亡者。跳ねる鼓動が血流を加速させる。コートの中で足を組む。ふくらはぎより上は見られてはいけない。ズボンもはいていないから。
「あっと……」
 席についてブラックの香りと味の余韻に浸る私の脇を、女性がトレイをもって通り抜ける。使い捨ての手拭きが落ちた。すかさず拾い上げ女性に渡す。

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