小説

『吾輩は21世紀の猫である』次元(『吾輩は猫である』)

 かように先生、国語科という枠を逸脱して好き勝手に講釈を始めるので生徒に大変人気がある。聴衆の反応を見つつ話題を転じたりオチをつけたりするのは教師というより芸人に近い。江戸の講談師とでもいった気色である。このへんは苦沙弥先生とは異なる才能であろう。だが生徒に人気のある教師ほど同胞に憎まれる。教師相手には得意の軽口も通用しない。散々嫌味を言われても一言もなく笑っているのみである。
 そして自ら述べているようにネトゲ世界の中では大いに仲間を集め、家族を作り、殆ど王者のごとく君臨している。そこには細君に類する人物もちゃんと存在する。この第二の人生のほうが余程充実している。現実世界では隣近所にすら変人と軽蔑されて相手にされておらぬ。どうやら対人恐怖症の気があるが、生徒やモニター越しの相手には強い。一体この人物はコミュニケーション能力があるのやらないのやら、吾輩にも一向わからぬ。
 ラインに就いては今更解説にも及ぶまい。なんでも日本人の半分がこのコミュニケーションツールを使っており、耳にしたことの無い者は稀少であろう。主人のラインの相手は、弟君、ネトゲ仲間諸君、そして教え子諸君である。この先生、生徒の機嫌をとるのだけが取り柄であるから、過去の卒業生諸君とラインのやりとりを盛んに行っている。と言っても大半の者は数ヶ月通信した後、すぐに飽いて没交渉となる。中には「先生久しぶり元気?」「うむ、元気だよ(笑)」「いいね(スタンプ)」で終わっているものすらある。一番古い教え子はもう十年以上前からつきあいがある。最初の学校の生徒で特別出来の良かった男子が立派に独り立ちして一流企業に就職したにもかかわらず、何故か知らん未だ主人のことを私淑して連絡をよこしてくる。これは真作の寒月君あたりの役どころであろう。主人も「あいつはきっと今にえらくなるからいずれわしの面倒を見てもらおう」などと正気とも冗談ともつかぬ事を常々言っていたのであるが、最近になって様相が変わってきた。徐々にラインの内容が具体性を失ってゆき、回数も減り、ついには途絶えた。なんでも鬱病にかかって会社も辞めて入院した由である。エリートの挫折と言ってしまえばよくある話だろうが、生真面目で頭の良い人間ほど精神を病む現代社会である。吾輩なども哲学的苦悩を大いに抱えた賢猫ゆえ気をつけねばならぬ。
 などと言っておる間にも、主人のラインの「ゆい」という女性から新着の緑ランプが「5」とついたので、マメな性格の主人は時を措かずに確認する。一昨年前の教え子である。
「ねぇねぇ」
「ハナジーハナジー」
「かれぴっぴとね~迷ったけど静岡行ってきたよ~」
「羊はメェ~ヤギは??」
 最後に羊が「メェ~」と鳴く動画が貼ってある。まず文章を四つに分ける意味がまるでない。これを仮に和歌に見立てるなら上の句は枕詞と呼びかけのみで構成されている。「ハナジー」というのは主人の苗字であるところの「花島」を指すのであろう。下の句二つに至ってはまるで意味が判然としない。知らぬ者にとっては暗号の類であろう。故に吾輩の解釈を述べるが、「かれぴっぴ」というのは最近出来た十五も年上の恋人のことであろう。そしてこの文章の要諦は「迷ったけど」の部分である。これは一見簡単そうに見えて実は難解極まる。「静岡に行く」という行動を決するのに迷ったのか、「かれぴっぴ」と共に行くことに迷ったのか、目的地に向かう最中道に迷ったのか。常識的にとれば三つ目であろう。だがこの娘は数日前に恋人と喧嘩をしたとの報告を入れているのでその情報を加味するなら、俄然一つ目二つ目の選択肢も可能性を帯びてくる。吾輩がここまで推理した所で主人も同じ筋道を辿って同じ疑問に縫着したと見えて、画面を上にスライドさせて過去の履歴である喧嘩のくだりを確認している。予習復習を欠かさぬのは教師の鏡である。

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