小説

『兔は野を、我は海を』百瀬多佳子(『うさぎとかめ』)

 ちょっとは先輩らしいアドバイスになっただろうか。舞子は思案顔でコーヒーをすすっている。と言ったものの、実は絢華を擁護したかっただけかもしれない。絢華のことを極力混じり気無しに書いてあげたかった。本当はすごくなんかないし、思い通りでもない。誤解されることに、きっともう諦めさえ感じているはずだ。そんな絢華の想いを少し垣間見たような気がしたのだ。私にとって、要領よくそつなくこなせる女子高生絢華は、一瞬にして不器用ながらも一生懸命な女性像へと変わった。コーヒーに落とした角砂糖が、崩れ溶けていくように。
「は〜い、了解ですっ!」
 飲みかけのコーヒーを片手に、舞子がすくと立ち上がって言った。敬礼なんぞしながら、ニコッと笑顔で去っていった。
 「うさぎとかめ」の昔話には続きがあるのではないか。たしかに亀が先にゴールテープを切ったが、実はその後、兎は別のゴールテープを切っていた。つまり、はじめから亀と兎は同じゴールなぞ目指していなかった。兎は兎の、亀は亀のゴールテープを切ったのでした。めでたし、めでたし。
 現実では、絢華も私も、ゴールテープを切った後まだまだ走り続けている。時に歩いたり、スキップしたり、休んでみたり。その道程には、山も谷も野も海もあって、晴れの日も雨の日も雪の日も台風の日もある。この道はまだまだ終わらない。
 人生の真実にほんの少しだけ、ほんとうに少しだけ触れた気がする。十八の春、桜舞う中、兎に抜かれたと思った私だが、すでにその時はみなが違う方向を向いて歩みだしていたのだな。絢華は絢華のペースで、私は私のゴールを目指して。そんなことに今更気づく卒業十年目。桜の硬い蕾が少しずつほころび始めていた。

 その後も相変わらずの日々だ。決算月にさしかかり、なおのこと慌ただしい。以前から観たかった評判の作家の個展にもなかなか足を運べない。会期が終わってしまう。私から美術を取ったら何が残るのだろう。
「ちょっと午後、時間空いてるかー?」
チーフから昼休み直前、声が掛かる。何かやらかしてしまっただろうか。悪く考えるのが悪い癖。もっともチーフのその声は至極のどかだ。
「…はい、大丈夫ですが…」
「そしたら第七会議室を取ってあるから、二時にちょっと来てもらえるかな」
 と言って、チーフは軽装のままランチに繰りだした。春めいているとはいえまだまだ肌寒い三月上旬。一方の私は持参した弁当の包みを机の上に広げた。何の話だろうか。ランチはだいたい社内で済ませる。同僚を誘って外食に出るようなことはあまりしない。私の性格はちっともあの頃と変わらない。春の気配は屋内からでも感じられて、なんとも気分は晴れやかだ。弁当をつつきながら、しばし耽った。

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