小説

『兔は野を、我は海を』百瀬多佳子(『うさぎとかめ』)

 十五の春。都市部の中高一貫校に通う私は、これといった感慨も抱けぬまま、卒業および入学という一連の式典をやり過ごしていた。同級生の顔ぶれは変わらない、三年前あれほど心躍った近代建築の学び舎にもう新鮮味はない。憧れの制服はすっかり私に馴染んでしまった。とはいえ、これらぼやきも平和な日常の一片。箸が転げてもけたけたと笑い合えるほどに、私たちの日々は穏やかだ。ただ時折、猛烈な退屈に襲われ、いつかここを脱出するその日を夢見る。持て余し気味に外を眺める昼休みの教室だったり、運動部の掛け声が聞こえてくる放課後の廊下だったり。五月の大型連休まであと十日ほど、春特有の眠たい空気のなか、私たちはゆるやかに学園生活のエンジンをかけ始める。

 人間ってのは、つくづく自分のことが可愛くて仕方のない生き物で、けれど大人に近づくほど物わかりのいいふりをするものでもある。十代の女子たちも―。誰かより抜きんでていたいという気持ちを秘めながら、明らかに劣る部分の存在も自覚せざるを得ず、その間でポジションを探っている。揺らぎとか不安定とか、いわゆる思春期という名のものか。そのなかをサバイブするために、自分や誰かをさまざまな基準でジャッジする。勉強4、運動も容姿も3、性格3.5くらいで、お洒落は2。たとえば、私はそういう女子。なお、これは5段階評価である。そこそこ現実的な自己評価をつけるくせに、他人からはちゃんと褒められたい。と思いきや、いともたやすく「すごい」「かわいい」などと他人を褒められるのが十代女子でもある。偽りではない。本当にそう思っているのだ。だが、そのうっすら苦味を帯びた称賛は、相手の心を逆なでる。まるで紙やすりでざらりと撫でるかのように、心の柔らかな部分に細かな傷を付ける。そして言ってしまった自分さえも。十五の学園生活は、「あの頃はよかったよね」などと大人が軽々しく言えるようなものではない。けっして、ない。ひりひり苦い。

 満開より葉桜が好き。そんなわかったようなことをいう小娘の私が、当時意識せずにいられない人がいた。クラスメイトの二兎絢華だ。彼女は、自らの女子高生としての価値を知ってか知らずか、その年頃らしいスカート丈を心得て、まっさらな白肌、栗色のサラサラ髪、愛らしい笑顔を身に付けていた。その上、気持ちのよい会話で、けっして目立つタイプではない私にも親切に接してくれた。勉強も苦労する様子はなく、バスケ部では副部長。ほとんど完璧だ。意識していたというのは、つまり羨ましかったのだ。頬にできたニキビやまとまらないクセ毛、努力でどうにもならないものに悩む自分との、埋めがたいギャップに悶々としていた。まぁ、嫉妬以外の何ものでもない。いまなら認められる。
「にとちゃん」
 クラスメイトの多くは、親しみを込めてそう呼んだ。しかし私には、絢華という眩しすぎる名のほうが深く脳裏に刻まれた。絢爛豪華の絢に、花ではなく華。心がざわついた。むろん「にとちゃん」などと気やすく呼べるはずもなく、「にとさん」と私は呼んだ。そもそも卒業までの六年間、私から名を呼んだことなど片手で数えるほどだ。男子のなかには、にとちゃんを追う者も少なくなかった。追う者も笑顔でかわす彼女に、私は勝手に完敗していた。

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