小説

『バー・アカシヤ』海野権蔵(『奥の細道』)

 少女は今も探し求めている魂のことを感じていた。
 少女は当たり前の家庭に当たり前に育ち、当たり前に嫁いで当たり前に子供を産んだ。その男の子が三才のときのこと。少女は子供と一緒にこの川に遊びに来たのだった。穏やかで暖かい春の日のことだった。あたりは陽光にあふれ水は浅く静かに流れており、どこにもそんな兆しは無かった。花が好きだった少女は花を摘もうと一瞬だけ子供から目を離した。そして振り向いた時、子供は消えていた。
 村人総出の捜索の甲斐無く子供は見つからなかった。悲しみのあまり正気を失った少女は、それでもただひたすらに子供を探し求めていたが「あの子が一人で石を積むのは可愛そう。私も一緒に積んであげよう」という言葉を残し、子供に会いたい一心で自らも川に身を投げた。
 その時手にしていた花は、子供が消える前でも後でも全く同じものだったが、少女にとっては最早なんの価値もないモノに成り果てていた。昨日まではあれほどまでに可愛らしいと思い、太陽の輝きを一身に映していたかのような花が、ただの無意味なモノへと取って代わってしまっていた。あの子は、そして私は、何故生まれてきてしまったのか。そんな哀しみとともに少女は川を流れていった。

 ひんやりと風が動き、椿が一輪、小川の流れに引き込まれるように又ぽとりと落ちた。月が天頂にかかっている。月が眩しい夜だった。
 少女はふと夜空を見上げた。
 「マダム、あの赤い星はなんていうの?」
 「あれはアンタレス。サソリの燃え上がる赤い心臓よ」二人は踊りをやめると椅子に座り、二人で夜空を眺めた。
 「私、ここで働くことに決めたわ」少女はまたも唐突にそう女に告げた。その時、初めて少女が笑ったように見えた。
 「そう、お好きになさいな」女は意に介する風でもなく答えた。
 少女は何を思ったか先程までの精気の無さはとはうってかわり、掃除のまね事を始めたり、客引きでもするつもりなのか、闇に沈むお店の外を歩き回ったりしている。マダムはそんな少女に何をいうでもなくグラスを傾け、煙草をくゆらせていた。
 二人の長い長い夜は更けていった。月がゆっくりと山の端に隠れていく。少女も女給のまね事に飽きたのか、時折何かを探るように暗闇に目を走らせながらも、今はもう黙ってマダムの前に座っている。マダムと少女はそれから何を話すでもなく何をするでもなく、ただ流れゆく夜の時間にたゆたっていた。マダムは一体何を待っているのだろう。客か、それとも他に。少女は一体何を探しているのだろう。迷える魂か、それとも他に。

1 2 3 4 5 6 7 8 9