小説

『先っちょには触れないで』木村菜っ葉(『眠れる森の美女』)

 普通に靴履いてる。傷付いているのに、普通に靴履いてる。小さく屈んで紐まできっちり結んで。いちいち結ぶ派だったんだ。
 思わずマルみたいな小さくなった背中に抱きついた。

 バタン!
 扉が閉まる。キッチンの水切り台の上にある食器も音を立てる。君は靴を綺麗に履いて、自分の部屋に帰って行った。

 抱きついた時振り払われると思ったが、君は振り向いた。
 振り向いた目は猫が威嚇する時と同じだった。怒っているのに怯えている目。閉まったペンキの禿げた茶色い扉にその目の残像がこびりつく。扉に見られながらひとりベッドへ向かった。ベッドに膝をつく。でもすぐに立ち上がりトイレに行って、しっかり夜用ナプキン付けた。安心。ガード。そんな昨日の夜。

 君の髪が凍りついたあの日。あたしあの日と変わらなかった。君も。ずっと好きだった。うそつけ。あの彼女に振られたから連絡したらすぐ来たくせに。振られたから、今ならって。今なら。堂々と会える。って。そう思ったのはあたしだけどね。堂々と会える? うそつけ。
 再び匂いを吸い込む。相変わらず良い匂い。この前パン工場の前通ったら同じ匂いがした。あぁ大好き。

んーんん
んーんん

 まただ。LINE。メールじゃない。分かってる。メールの可能性忘れたらメールが可哀そうだと思ったの。完全にLINEに追いやられて。
 「絵文字」ていう世界的発明をしたのはメールの方なのに。
 LINEはたぶんクソ彼氏から。
 昨日ちゃんと家に帰ったか心配している。ライブが終わるのが遅い時間だったから一人で無事帰れたか心配している。帰りが遅くなると怒る。たとえ仕事でも。無事帰ったことを伝えれば安心してくれる。昨日は伝えた。無事帰った。無事だった。それでも連絡してくる。いつもなら家に来ているだろう。今日は出張で来ることが出来ない。
 帰れるよ。一人で帰れる。そんなに遅い時間じゃなかった。駅からは近いし道も明るい。途中コンビニも友達の家もある。そう伝えているのに。はっきり伝えたのに。

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