小説

『滅びない布の話』入江巽(ゴーゴリ『外套』)

存分に春めいて、日が落ちるのが、すこしづつ長くなった。そして今、心斎橋駅八番出口を出て左に曲がり、大丸心斎橋店、左の横目で見て、あそこではたくさん服売られてるけどそんなもの、誰かのための服で俺には関係ない、思う。
やまびこ洋服店の隣はスーツカンパニー、この店で売られる吊るしのスーツもスーツだけど、けれど俺が思うスーツ、絶対にそこにはない。俺のスーツは仕事のためのスーツじゃない。仕事で着るのは作業服でこれは支給されるものだ。俺は自分の生活に大して引っ掛かりや手応えがないから、俺だけの服が欲しい。だから生活の大部分を賭けて、身分不相応な値段のスーツをオーダーする。
 やまびこ洋服店、本当は、俺のような年齢、俺のような階層の人間がスーツをオーダーする店ではなくて、おっさんらの成功の象徴のようなゼニアの生地がはばきかせ、カットも縫いも上等で、センスもきっといいだろう、着こなしこなれているだろう、生活と服、地位と服、収入と服、調和していることだろう、けれど俺はスーツへの気持ちがもっともっと切羽詰まっている。それは、単にええかっこしたいという思いともどこか違い、ましてやモテたいとかそういうこととも違う。そらモテたらうれしいけど。
 やまびこの自動ドアはすっと開き、スーツの仕上がり確認する時間近づいて、トクントクンと血が心臓へ流れ込む。やまびこの店ん中は奥に細長いつくり、入ってすぐのところでは、タイや既成のシャツも売り、その売場の奥にオーダー客が生地選んだり、採寸してもらったりする場所がある。やまびこでオーダーするのは六度目だけどスーツ受け取りにいくときのお決まりで、すきな女の子に話しかけるためにそっと近づいていくように、店に入ってからはゆっくり奥まで歩いていく。それは歩数にすれば十歩にも満たないが、わざとゆっくり歩く。だいすきな布のにおいがする。奥のオーダー客のためのソファーには、明らかに仕事がアパレルな感じの渋い客のおじさん座っていて、コットンパンツ用の生地のバンチをめくっていた。客に対応中なのは元山さんという若いほうの店員、やまびこは縫製工場に外注するんじゃなく、カットや縫いの職人、直接かかえているので、その奥に木の扉で仕切られた縫製のための作業場があり、今日は扉があいていて、ここから中は見えないが、ミシンの音がタタタと聞こえ、布を選ぶ客の声、布を切る音、布を縫う音がするこの空間そのものも俺はすきなのだと思ったとき、帳簿かかえた木村さんが奥の縫製部屋から出てきて、俺の姿を認めてニッコリ、見かけていた帳簿畳んで「中塚さん、お待ちしてました、どうぞどうぞ」寄ってきて椅子をすすめてくれた。木村さんはいつも俺に対応してくれる年いったほうの店員、年いったといっても四十越してはいないだろうが、今日の明るめの紺地に白いペンシルストライプはいったスーツもよく決まった、精悍でさばけた感じのおじさんだ。腰おろし、「今回はえらいいろいろ無理言いましてすいません」俺まず言うと、「ほんまですよ」と笑いを含んでの気安い言葉、ふっとうれしなった。創業九十年の大阪では指折りの古いテーラーがやまびこなのだが、オーダーに行くの、気おくれしたのは二年ほど前の最初だけ、こういうちょうどいいラフさも気に入っている。かといって、仕立て屋はいいスーツをつくり、その仕立て自体によって客にいい夢見させることが一番だいじなことなのだから、客あしらいが多少へんくつでもかまへんとも思うけど、俺みたいに金持ちでもないのにわがままな注文する客には、あれこれ頼みやすい店員がいることはすぐにスーツの出来に作用するような気もして、だからやまびこはいいのだった。「ほんで、その、どんな感じに上がりましたか」、俺も笑顔になってソワソワ尋ねると、お持ちしますわ、木村さん言い、ふたたび縫製部屋へとってかえし、ハンガーに吊るされて俺に近づいてくるスーツ、遠目に見た一瞬で、あ、ええわ、たぶんもっすごええのできたわ、すぐに思って、気分が高揚した。

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