小説

『飼育』植木天洋(『人魚姫』)

 先輩のリア充満タンな台詞がよみがえる。
 ―—飯とか色々、必要なのは宅配で送るから、んじゃ、しくよろ〜―—
 しくよろ? アナグラムか。リア充らしい先輩の謎に満ちた言葉のチョイスがイタい。
 中学から男子校に通い続けて大学デビューをすることもなく、平々凡々な学業生活をしていた僕。そんな僕にどうして輝かしいばかりのリア充オーラに充ちた「先輩」ができたのだろう―—出会いのシーンなど先輩が繰り広げる軽薄で濃密な毎日に埋もれてすっかり忘れてしまった―—本当にどうしてああいう人と知り合って、生き物を預けられるくらいに信頼されてしまったのだろう。頭を抱える。
 バシャッ
 また生臭い水をかけられて、我に帰った。ウンそうだ、生臭い。
「そうだね、わかったよ。水をとりかえるよ」
 昆布の欠片をチューインガムのように噛んでいる彼女の体に腕を回し、浴槽から抱き上げる。
 虹色に輝く鱗に包まれた美しい下半身が、てろりと洗い場に落ちる。半透明の尾がビチビチと水をはねて、僕の体中をぬめぬめに、生臭くしていく。この服は、捨てよう。
 先輩直筆の(今の時代に!)きったない文字と怪しげな図の踊る「取扱説明書」を解読したところによると「彼女」は少しの間なら海水から出ていられるらしい。大体三十分位なら。とはいえ三十分経ったら突然死ぬとかでもなく、およそ十五分くらいからぐったりしはじめるということだ。なのできわめて素早く水替えの作業をしなければならない。
 体が渇かないよう浄水器付きシャワーを彼女にかけつつ、洗面所からひいたホースに別の浄水器を接続し、排水を終えた浴槽をきれいに磨き上げ水を満たす。
 それから、200Lの浴槽満タンの水に塩6Kg加えて海水塩分濃度に近くして、一人遊びに飽きて不機嫌になってきた彼女の脇に再び腕をまわし抱き上げて、浴槽へ戻す。ざああぁーーっと人工海水が流れ出て、彼女は新しい環境にご満悦な様子だった。
 ぷかぁ、とカエルのオモチャが彼女の目の前に浮いている。彼女はそれが獲物であるかのように、指を槍のようにしてツンツンとつついている。
 やれやれ。僕は風呂掃除用の大きなスポンジを手に、バスルームを掃除しはじめた。海へ流しても分解される洗剤を使って、淀みきった生臭さをできるだけはぎ取るようにしてひたすら壁や床を磨きながら、ふと思った。
 抱きしめた、彼女の上半身。乳房というにはささやかな膨らみがあるあれが、どうにも―—どうにも気にならない。おかしい。動物の無防備な胸部を見た時のちょっと奇妙な気分になるだけで、女性に感じるような性的欲求を微塵も感じない。
 そりゃあ両手で昆布を貪り食われたら百年の恋も冷めるけど、それでも女性に免疫のない僕が、たった半身だけでも生身の女性に照れや恥を感じないのはおかしい。

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