小説

『春色のマニキュア』緋川小夏(『マッチ売りの少女』)

 最初のうちは、それらは単なる老化現象で誰にでもあることだと自分に言い聞かせていた。けれども母の身体の衰えや奇行をハッキリと認識するようになってからは、坂道を転げ落ちるように症状が悪化していった。
 物忘れが更に酷くなり、何度か鍋を焦がした。枕元に置いてあった財布がなくなったと騒いで近所でトラブルを起こした。いきなり夜中に大声で歌い始めた。トイレが間に合わなくなり、粗相をして汚した下着をベッドの下に隠すようになった。
 私が叱ると、小さな子どもみたいに背中を丸めてさめざめと泣いた。
 睡眠や排泄をうまくコントロールできなくなり、やがて徘徊が始まると私は夜もおちおち寝ていられなくなった。仕事を抱えての連日の睡眠不足に、私はもう限界だった。
 それからも母の症状は一進一退を繰り返しながらも徐々に悪化し、今では一人娘の私の顔さえもわからなくなっている。
「娘……? そんなはずないでショ。だって私は、まだ結婚もしていないのヨ」
 そう言って尖らせた口元に寄せた母の指先を見て、私はぎょっとした。
 母の爪にマニキュアが塗られている。
 その色は血液を思わせる深く濃い赤で、老いた指先には不釣り合いなほど生々しい。母はいつも丸めた指先をぎゅっと握ってグーの形にしていることが多いので、ここに来てから今まで全く気がつかなかった。
「やだ、お母さんたらマニキュア塗ってるの? しかも真っ赤じゃないの」
 私は母の手を取って、つい強く咎めるような言い方をしてしまった。母はどこまで理解できているのか、私の言葉にぼんやりと首をかしげるだけだった。 
 若い頃の母は躾にうるさく、とても厳格な人だった。私は服装から言葉遣いまで厳しく管理され、いつも監視されていた。髪の毛を染めることもパーマをかけることも禁止されていて、マニキュアなんてもってのほかだった。
 恋人はおろか男友達を作ることさえも許されず、校則の厳しい私立の女子校で息の詰まる学生生活を強いられた。そんな窮屈な日々は、私が大学を卒業するまで続いた。
 縁がなかったと言えば、それまでかもしれない。でも私が結婚もせずにずっと独り身なのは、母の異常なまでの束縛が原因だったのではないだろうか。
 その思いは打ち消しても、打ち消しても、私の胸の奥で今も燻り続けている。
「あなたがだらしないと私が嗤われるのよ」「片親だからって世間に馬鹿にされたくない」「ちゃんとしなさい」が口癖だった母。
 そんな母の指先に塗られた派手なマニキュアに、私は強烈な違和感をおぼえた。
「あらぁヨシノさん、今日は娘さんが来てくれたのね。良かったわね~」

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