小説

『主よ、人の目覚めの喜びよ』微塵粉(『三年寝太郎』)

 ユキアがおれの手をひいて一歩踏み出した。恐怖で思わず目を瞑ってしまう。暗闇の中、ユキアの手を強く握り締めたまま歩き出した。一歩、二歩、三歩、四歩……特に何も起こらない。ユキアは立ち止まり、大きく深呼吸した。
「あああ。緊張したわあ。ほらタロちゃん、平気じゃないの。何もないない」目を開けた。雨なので交通量は少なくはなかったが、車の流れはとても穏やかである。体が弛緩して、みっともないため息が零れた。
「ふへええ。はあ、、、よかった。助かっ」
「た」に被さるようにして、けたたましいクラクションが鳴り響いた。こちらを向いたユキアの腕越し、遠くからめちゃくちゃな動線を描いて猛スピードのセダンが近付いてくるのが見えた。足の底から、震えが舞い戻ってきた。
「ほ、ほら。やっぱりきた。やっぱりだめなんだあ。ああああ」傘を放り投げて指差すとユキアは勢いよくそちらを振り返った。次の瞬間、彼は俊敏な動きでおれの股下に手を突っ込んだ。
「あ、こら」と言った時にはおれの体は宙に浮いていた。ユキアはその豪腕でもっておれを放り投げたのだ。空中で反転し逆さになった視界は、コマ送りに見えた。おれめがけて突っ込んで来る高価そうなBMW。その前に両手を広げて仁王立ちするユキア。悲鳴のように重なるクラクション。しとしと降る雨。
「ふんぬおあらああああああああ」獣のようなユキアの咆哮。
 ごつん。
 逆さのまま歩道に落下してしたたかに頭を打ちつけたおれは、やっぱり意識を失った。

 たららたららたららたらら……
 神々しい音楽が聴こえる。どこかで聞いたことのある曲。四分の三拍子の優しい旋律。たしかこれはバッハの曲だ。タイトルは忘れた。ついに、天国へやってきたのだ。おれは解き放たれたんだ。はははははは。目を開けた。
「あっ起きたわよお母さん。気分はいかがああ。クラシックをかけてみたのよん」天使の声がこんなに酒焼けしているはずがない。
「たろうっ」母が駆け寄る。
「今度は、どのくらい寝ていたの」
「あら一時間くらいよ。軽い脳しんとうよお」隣のベッドには包帯だらけの足を吊ったユキアが仰臥している。
「あんたはもう、心配ばっかかけて本当に」改めて見ると、母も随分年老いた。
「何度も何度も、ごめんよお母さん」
「あらあタロちゃんのせいじゃないわよお。あの運転手、危険ドラッグっていうの、なんか変な薬やってたんだって。怖いわあ。たっぷり慰謝料ふんだくってやるから、みんなで旅行でもしましょうよお」セダンと正面からぶつかっといて、元気そうな君のが怖いなおれは。

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