小説

『主よ、人の目覚めの喜びよ』微塵粉(『三年寝太郎』)

 心臓がぎくりとした。痛い程脈打つ。何度も「ループ」を経験したおれにとって、驚く、なんてことは久しく無かった。久しぶりの吃驚にここぞとばかりに高鳴る胸。驚天動地。青天の霹靂。どんな言葉でもおっつかない程におれはショックを受けていた。冗談にしてもタチが悪すぎる。混乱し過ぎて笑いがこみ上げてきた。
「はは……、あははあはあはあは、あーはっはっは」
「少し、記憶障害があるようですね。又根さん、次は生年月日をおっしゃって下さい」
「毎度毎度あんたもしつこいなっ。又根太郎。昭和59年2月18日生まれ板橋区成増出身。マンプク給食センターの専属ドライバーで仕事中に事故にあった。独身で現在は北区で一人暮らし。母の名前は公子。父の秀雄はおれがハタチの時に死んでる。趣味は山登りと飲酒と読書。好きな食べ物はすあま。嫌いな食べ物はニラだ。文句あるか」捲し立てた。
「ふむ……。問題は、ないようですね」吉岡は母がしきりに頷くのを見ながらボールペンをはしらせた。「すあま……と」
「おれは記憶障害なんかじゃないですよ。そうだ。みんなでおれをからかってるんでしょう。やだなあもう」
「からかってなどいませんよ。こちらのユキアさんは、週に二回必ずあなたを見舞っていました。それも三年間一度も欠かすことなく。時には体のマッサージなどを手伝ってくれたりもしたんですよ」ユキアと呼ばれるおかまに目をやると、レースのハンカチを口元にあてぽろぽろ涙を流している。あまりにも悲しげなので、気の毒になってきた。
「いや、けど……本当にわからないし、それに、彼は男性でしょう。僕には同性愛のケはない」
「ぐううう」ユキアが体を震わせた。母がその体を支えて吉岡に訊ねた。
「先生、記憶障害っていうのはたとえば、一人の人間、その人のことだけを忘れてしまうなんてことはあるんでしょうか」
「無い、とはいいきれませんね。人間の脳というのは、未だに謎が多いのです。太郎さんのように事故にあった方で、幸い身体的な後遺症などは残らなかったものの、ある一定の期間の記憶だけきれいさっぱり忘れてしまっているという患者さんがいました。一人の人間のことだけを忘れてしまうことだってあるのかもしれない」
 ユキアはその場にへたりこんで、振り絞るような声で言った。
「わたしは、大丈夫。わたしは……タロちゃんに忘れられちゃっても、タロちゃんが、目覚めてくれたんだから、嬉しい。うれしいぃっっっっ」
 室内にユキアの泣き声が響き渡る。おれは彼(彼女?)になんて言葉をかけてあげたらよいかわからず、黙って俯いていた。

 その後、脳波の検査が行われたがやはり異常はなかった。検査を終えたおれの病室にはたくさんの人が訪れた。会社の同僚や友人、親戚がつぎつぎにやってきては皆おれの目覚めに驚喜し、泣いてくれる者までいた。これらはいつもの「ループ」と同じパターンで、おれは事も無げに見舞客に応対した。隅に置かれた椅子に腰掛けているユキアだけが、異質な存在だった。見舞客はみな当たり前のようにユキアに声をかけ、ユキアはその度に立ち上がって丁重なお辞儀を返した。

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