小説

『みずうみ』末永政和(『みにくいアヒルの子』ヘッセ『ピクトルの変身』)

 迷いはなかった。もう彼の目に、真っ黒な自身の腕は見えなかった。自分を恥じる必要はなかった。夢から覚めて、彼は立つべき場所を知った。
 いつの間にか硬く冷たくなった幹を伝って、彼は慎重に地面に降り立った。はがれかけた樹皮が腕に引っかかった。立ち止まって、元いた場所を見上げた。老いた枝がいくつも交差して、天をさえぎっていた。いつか見た、蜘蛛の巣のようであった。彼は思いを振り切って、湖のほうを向いた。
 体中が痛んで言うことを聞かなかった。けれどあの美しい音色に耳を澄ませていると、なぜだか体の奥深くから、力が、熱がわいてくるようだった。何度もつまずき、両手を地につきながら、彼は湖のほとりを目指した。
 嵐がなぎ倒したのか、イチイの幹が横たわり、行く手をふさいでいた。彼は幹と地面とのわずかな隙間に体を潜りこませ、泥まみれになりながら前へ進もうとした。枯れ草がまとわりつき、あちこちから血が流れ出していた。彼の姿は無様だったかもしれない。しかし夜空はそんなことはおかまいなしに、照らすべき者を照らすのだった。星々は行く手に灯り、まるい月が湖に光を落していた。
 湖のほとりに立ったとき、切ない音色は変わらず響き、岩穴の光のなかには悲しげな女の姿があった。彼は女のまなざしに引き寄せられるように、一歩また一歩と水のなかへ進んでいった。
 水鳥の姿は見えなかった。虫の声も聞こえなかった。熱に浮かされたように歩を進めながら、彼は水面がかすかにふるえていることに気づいた。
 さざ波が、湖上をはしっていた。月の光が水面をふるわせているのかもしれなかった。女の奏でる音が、水を伝って届いてくるのかもしれなかった。
 涙が止まらず、彼は冷たく光る月を振り仰いだ。月は彼の背後から湖上に光をそそぎ、そのなかをひとひらの白いものが舞った。雪のようであった。灰のようであった。一切の音が遠ざかり、はらはらと舞う音だけが、聞こえてきそうな気がした。冷たさも痛みも忘れ果てて、彼はそこに立ち尽くしていた。
 そして再び視線を湖上に落したとき、彼ははるか前方に、黒いかたまりがあることに気づいた。
 それは見知らぬ男の背中だった。一艘の小舟が湖をわたっていた。湖の上にはまっすぐに影が伸び、その行く先には女の光があった。
 よく見れば、今にも沈みそうなほど粗末な舟だった。男の後ろ姿も、自分とさして変わらぬように思えた。右へ寄り、左へ寄り、蛇行しながら進む様は滑稽でもあったが、それを笑う気になどなれなかった。
 彼と同じように、岩穴にのぞく女の姿にひかれ、夜ごと思いを募らせていたのだろう。彼が夢のなかに逃げ込んでいるさなかにも、あの男は湖をわたる術を考えていたのだろう。手の届きようのないところにその背中はあって、女の姿もまた、遠ざかっていくのだった。

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