小説

『みずうみ』末永政和(『みにくいアヒルの子』ヘッセ『ピクトルの変身』)

 まぶたを閉じていようと開いていようと、前にあるのは闇ばかりのはずだった。それなのに、まぶたの向こうに微かに、光を感じていた。
 心のなかに思い描く女は、日ごと美しさを増していった。湖にいた水鳥たちとも異なる、凛とした美しさだった。彼にないものをすべて持っていた。彼は何も持たなかったから、なおさら女が遠く感じられた。女を思うたびに、自分の醜さ小ささを思わずにはいられなかった。
 思いがいや増すほどに、何もかもが恨めしく感じられた。月も星も、岩穴の灯りも、光を宿した湖も、女の姿を浮かび上がらせたそのすべてを、彼は激しく憎んだ。なぜ俺はこんなに醜いのだ。こんな醜い俺の前に、どうしてあらわれたのだ。それなのに、女を思うと怒りや悲しみの向こうに、なぜだか歓びがあるのだった。
 いつからか、目を閉じてじっとしていると、甘い香りを感じるようになった。花でもない、果実でもない。その香りが何なのか分からず、けれど心は満たされていった。光と闇と、それ以外のものがあることを彼はまた知った。
 それはかすかではあったが、本当に甘い香りだった。体中に、心の奥底にまで染み渡ってくるかのようだった。うっとりとそのなかに浸っていると、身を切るような悲しみから遠ざかることができた。そして寒さにふるえていた体が、ほのかにあたたまっていくような気がした。
 その香りは、いつでも漂っているわけではなかった。時を置いて、忘れたころにやわらかく香ってきた。かすかな風に乗って、キツツキが樹に穴をあける音とともにどこからか運ばれてくるのだった。
 けれど彼は、その香りをたどろうとは思わなかった。また樹の上から降りるのは怖かったし、目を閉じて女の光を向こうに感じながら、香りに身を任せるだけで満足だった。とうに怒りは過ぎ去って、彼は怠惰のなかに安らいでいた。目を閉じているかぎり、彼は望まぬものを見ずにすんだ。女の姿は思い出となり、時を経るにつれていっそう美しくなっていった。
 香りはうちに、眠りのなかにまで届いた。夢を見たのだ。それまで闇のなかでの眠りはさらに深く重い闇でしかなかったのに、あたりは心地よい香りに満たされ、そして光に満たされていた。
 彼は白い鳥だった。しみひとつないその体はやわらかな羽毛におおわれ、湖の上を軽やかにすべった。くちばしは鮮やかな黄色で、その先だけが黒かった。水面をたたけば美しい水紋が広がった。
 まわりには同じ姿をした仲間たちがいた。体を寄せあい、きらめく光の下で羽を休めていた。魚たちが楽しげに、銀の鱗を光らせながら泳ぎまわっていた。湖のまわりには、ヤマシャクヤクが大輪の花をつけていた。赤い実をつけた針葉樹はイチイだろうか。メジロやヤマガラが、赤や緑の小さな体を踊らせながらその実をついばみ、種を落していた。種は青い空の下、黒曜石のように輝いた。岸辺のくさむらでは蜘蛛の巣が露にぬれて、きらきらと光っていた。
 小さなものたちの営みを見るにつけ、彼の心は休まり、無為に過ごした日々が遠く薄らいでいった。

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