小説

『みずうみ』末永政和(『みにくいアヒルの子』ヘッセ『ピクトルの変身』)

 やがて水紋が消えて湖のおもてが平らかになったとき彼ははじめて、そこに映る自身の姿に気づいた。
 黒い影が浮かんでいた。棒切れのような体だった。あまりにも汚れた、みにくい姿だった。月は容赦なく、光のただなかに彼の姿をさらけ出したのだった。
 水が体を清めてくれると思ったから、彼は身にまつわるしがらみを捨ててここに来たのだった。けれど、突きつけられたのは顔を背けたくなるような現実だった。
 我が身に絡みつく黒い闇も、我と気づかぬ獣じみたにおいも、ここに来ればなくなるものだと思っていた。それほどに、彼と女のあいだに横たわる湖は神聖なものだった。ここでなら、きっと生まれ変われると思っていた。もう樹の上で暮らすこともなく、女とともに生きていくのだと思っていた。かなわぬ夢だとどこかで理解はしていたが、それでもすがらずにはいられなかった。
 あきらめきれず、彼は手のひらを水のなかでこすり、腕を何度も引っ掻いた。水鳥たちを驚かせぬようにゆっくりと、しかし皮まで剥がれ落ちそうなほどに力強く、悲しい行いを繰り返した。
 どれだけやっても、何も変わることはなかった。手のひらも腕も変わらず黒く、水鳥のように白くなどなりようもなかった。
 彼は力を失って、水底にひざをついた。体のほとんどが湖に没して、今はもう、肩から上が見えているばかりだった。
 空を見上げると、月はうすい雲におおわれてその光をにじませていた。星々は雲を揺らすように、しきりにまたたいていた。水面は再び平静に戻り、いつしか彼を中心に小さな水紋が生まれていた。
 それは、あご先から落ちる雫によるものだった。それさえも、黒く濁って湖を汚すのだった。
 しわがれた顔はうなだれて、うなだれ尽くして、いつしか祈りを捧げるような格好になっていた。びしょ濡れの体に、風が冷たかった。さっきまでは波ひとつなかったのに、岸に上がった途端に風が彼の肌をかすめていった。月下にあばかれた彼の体は、前よりもひとまわり小さくなったようだった。
 身震いしながら、彼は重い足取りで元来た道をたどっていった。不安に怯えた行き道よりも、悲しい現実を知った帰り道の方が、よほど心を暗くさせた。
 水鳥たちは姿を消して、草むらの虫たちももう声を出さなかった。足をひきずる音だけが、暗い森に響いていた。一匹の蛇が、よろめいて歩く彼の後ろ姿を見つめていた。

 心はかたく閉ざされた。俺はなんと愚かだったのだろう。あの晩の出来事がひどく恥知らずに思われて、彼はすべてを忘れ去ってしまいたいと思った。もう二度と、あんなふうに迷ってはいけないと思った。俺は何も望んではいけないのだと、心から思った。だから夜も昼も関係なく、彼は目を閉じて、樹の上から動かずに過ごした。何をする気にもなれなかった。女を、あの尊い光を知る前のように、みずからを樹の一部と化して、衰えていくに任せた。

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