小説

『みずうみ』末永政和(『みにくいアヒルの子』ヘッセ『ピクトルの変身』)

 いつもの場所には、灯りはともっていなかった。まだ時間が早いのかもしれない。それとも今日は女を見ることがかなわないのかもしれない。あれだけ勇気を振り絞ったにもかかわらず、彼はいま、後者を望んでいた。自分の姿を見られるのは恐ろしかった。どうかこのまま寝静まっていてくれるようにと、彼は願っていた。
 ひざから下を夜露にぬらし、枯れ草のにおいを引きずり、彼はためらいがちに、湖のふちにたたずんだ。
 水はしいんと冷たかった。あちこちの傷が刺されるように痛んだ。ただでさえふらつきがちな足腰は、水のなかではいっそう不自由で、彼は両腕を前につきだして、情けない格好で少しずつ前に進んだ。
 透明なはずの水は、しかし彼のまわりだけ黒くにごっていた。影が揺らいでいるのではなく、足腰の汚れが溶け出して、気味悪くたゆたっているのだった。水草がひざにまつわりついた。足もとの泥土は重みに堪えかねてひずみ、時折小石が足裏を刺した。魚たちは背をひるがえして遠ざかっていった。再び彼は孤独を感じた。独りであることに疑問さえ持たず、影のように生きてきた彼にとって、それは殻を破るための試練であったかもしれない。
 引き返そうかと迷いながらも、いつしか腰のあたりまでが水に浸かっていた。生まれてはじめて感じる浮力が、彼をいっそう不安にさせた。慎重に、すり足で歩かなければ、たちまち湖に飲み込まれてしまいそうだった。
 そのとき、かすかに水のはねる音がした。気配に振り返ると、水辺の草かげで数羽の水鳥が羽を休めているのが目にうつった。
 身を隠す場所などどこにもなく、彼は息をひそめて水鳥たちを見つめた。
 水鳥たちもまた、同じように彼のことをじっと見つめていた。眠りを覚まされたことをとがめるでもなく、その白い体を水に浮かべていた。
 腰まで水に浸かっていたから、彼の視線と水鳥の視線はちょうど同じ高さにあった。だからなおさら彼は、黒く澄んだ瞳から目をそらすことができなかった。
 水鳥たちの瞳に、自分はどううつっているのだろう。それを思うと、彼の心はさっきの霧のような、深い悲しみで満たされた。
 あの白い羽こそ、この湖にふさわしいではないか。しなやかに伸びた首も、なめらかなくちばしも、そして深く澄んだ両の瞳も、そのすべてがうらやましく感じられた。
 水鳥たちは、決して近づいてはこなかった。そのかわり、そっと首を上げ下げして、くちばしの先を水面に触れさせた。するとまるい水紋がふわっと広がり、水紋同士がぶつかっては消え、次第にそれは小さな波のように、次々に真円を広げていった。
 彼のところにも水紋は届いた。そこに込められた言葉を推し量ることはできなかったが、寄せては消えるささやかな曲線は、彼の心をなぐさめた。

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