小説

『みずうみ』末永政和(『みにくいアヒルの子』ヘッセ『ピクトルの変身』)

 それが何なのか検討もつかなかった。岩穴の存在もはじめて知ったし、こんなふうに湖の向こうに思いをはせることもなかった。これまで目にしたことのない、やわらかな灯りだった。頼りなく揺れるさまは、水面にうつる星とそう変わらなかった。それなのに、その明かりから目をそらすことができなかった。
 光のなかに、人影があった。目をこらすと、それが女であることが分かった。
 女もまた、こちらをじっと見つめているのだった。身動きひとつせず、ただ見ること以外に術を知らぬかのようだった。
 次第に目が慣れてくると、女がしなやかな黒髪を肩にたらしていることや、真っ白な衣を身にまとっていることに気づいた。女はひどく美しかった。手足はおどろくほど細かった。まっすぐに背を伸ばし、こちらを見据えていた。悲しげな顔をしていた。
 風のない夜だった。聞こえてくるのは胸の鼓動ばかりだった。人目に触れてしまったことが恐ろしいのではなく、ただ女の姿が、心を惑わせるのだった。
 その感情が何を意味するのか、彼には分からなかった。苦しさも悲しさも、今まで経験したことのないものだった。そしてもっと大切な何かが、彼の心を縛りつけていた。灯りが消えて女の姿が見えなくなるまで、彼はじっと息を殺していた。いつしか夜が明けようとしていた。
 その日はなかなか寝つけなかった。薄暗い森の大樹の上で、彼は何度も女の顔を思い浮かべた。女の輪郭を木の幹に描き、指先でそっとなでてみた。何か罪なことをしているような気がして、あわてて手を引っ込めた。
 次の晩も同じように、対岸の灯りを、そのなかにいる女の姿を見て過ごした。その次の晩も、そのまた次の晩も、魅入られたように動けず、せわしなく打ち続ける胸の音に耳を澄ませた。
 女の姿が見えないとき、彼は自分が一人であることを強く実感した。今までそれが当たり前だったのに、一人でいることがただただつらく思われた。ここには誰一人いない。それでいいとずっと思っていたはずなのに、今はもう耐えられない。自分の存在が取るに足りぬちっぽけなものに思えて、何もできず途方に暮れるばかりだった。
 女はいま、眠りについているのかもしれない。あの美しい黒髪を敷いて、長い夜を過ごしているのかもしれない。誰かを待っているのだろうか。何を思っているのだろうか。決して幸せそうではなかった表情を思い、彼は我がことのように胸を痛めた。
 彼はそうやって、女の髪を思い浮かべた。遠目からでもはっきり分かるほどに、女の髪はつややかで細く輝いていた。月の光をたずさえて、濡れたように美しかった。その一筋に手を触れたいと思った。しかし自分の頭に手を当ててみれば、指に触れるのは硬くねじくれた、奇妙な頭髪だった。その色を彼は知らなかったが、きっと見るに耐えぬ醜い色をしているに違いなかった。
 そしてまた、彼は女の肌を思い浮かべた。それは星明かりを宿した湖のおもてのように、白くなめらかにうつった。遠く離れていても、彼にはそのやわらかさが想像できた。

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