小説

『みずうみ』末永政和(『みにくいアヒルの子』ヘッセ『ピクトルの変身』)

 夜があった。
 鬱蒼と生い茂った樹々の葉は、暗闇の重みに耐えかねるように頭を垂れて、一様に沈黙していた。星の光は枝葉にさえぎられ、夜に溶けていった。
 人里離れた森のなかには一際高い大樹があり、大きく開いたうろにひとつの影が潜り込んでいた。枯れ枝のような両手足を窮屈に折りたたんで、幹のくぼみに背をあずけていた。
 森が風にふるえても、心は騒がなかった。呼吸の音さえしなかった。樹々の営みと同じようにゆっくりと、果てていこうとする命があった。
 昼日中は樹のうろに一層深く体を潜り込ませて、静かに眠って過ごした。一人で朽ちていくには、不自由なこの場所もかえって都合がよかった。誰も足を踏み入れないような森の奥深くだったが、それでも用心して、人目につかぬように体を隠した。
 大樹のすぐそばには湖があり、季節の移ろいを水面にうつしていた。夜を重ねるごとに月の輪郭は太くなり、水辺に明かりを落すようになった。

 秋が近づいていた。
 変わることを拒むようにうつむくこの森にも、秋はたしかにその影を落としていた。夜空は澄み渡り、風は冷たかった。頭上に広がる無数の葉も、かわきやがて散るときを待っていた。
 樹皮のところどころは苔におおわれて、やわらかく体を支えた。この苔が葉とともに落ちてしまうのか、この先も残り続けるのか、分からなかった。これまではどうだったか、今までどう過ごしてきたのか思い出せなかった。
 毎日を夜とともに過ごした。何も目にはうつらず、じっと息をひそめていた。語る言葉も触れるぬくもりもなく、思い出にひたることさえなかった。それがきっと自然なことで、これから先も変わることなく、日が暮れてから夜が明けるまでの無為な時間を繰り返すはずだった。
 ある日いつものように樹の上で目を覚ますと、あたりはもう暗闇につつまれていた。目をあけていても閉じていても変わらない、暗闇だけがあるはずだった。
 秋の空気は透き通っていたから、夜の向こうを、はるか遠くを見通せたのかもしれない。雲ひとつない夜の森の奥、湖をへだてた向こうに、かすかな灯りが揺らめいていた。星のまたたきでも月明かりでもなく、それは岩壁にうがたれた穴から洩れ出す光だった。

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