小説

『邪悪の森』和織(『狂人は笑う』『猟奇歌』夢野久作)

「やぁ先生」
 人懐っこくそう挨拶してきた患者Yは、相変わらずうんざりするくらいに血色がいい。彼が体調の悪かったりしたところを、私は見たことがない。とても、精神病院の患者には見えない。
「君に問題を起こす気がなければ、きっとこの先我々の苦労も減るだろう」
 彼の前に腰かけて、私はそう言った。
「そんなこと言ったって先生、わかってるだろう?僕に「問題を起こしたい」なんて大それた気は元々ないんだ。ただどうしてか、相手が勝手に、いつの間にか思ってもみない程炎上してしまう。いつもそうじゃないか」
「火種が自分だという自覚はある筈だけど?」
「だから、僕はここにいるんでしょう?それに病院の中での悪戯になら先生たちがすぐ対処できるし、僕の入院期間は延長されるし、これ、お互いの為になってると思うけど」
 確かに、この男の言うことは最もだ。私にとってYは、できれば二度と顔を見たくない相手だけれど、医者としてはとても彼を外の世界へ戻すことはできない。しかし、彼が定期的に意図的に起こすトラブルに対しては、とっくに我慢の限界を超えている。
 最初にターゲットにされたのは、患者Aだった。彼女はもう三十年近く入院している患者で、いつも自分の担当医を、自分の婚約者だと思い込んでいた。何人医師が変わっても、その度に自分の婚約者のイメージを上書きするのだ。
 元々Aは十代の頃に両親を亡くした後、引き取られた親戚の家の中で数年間監禁されていた。そのうちに精神を病んで、脱走した日に家じゅうの人間を皆殺しにした。それから保護されて病院へ入ったことが、彼女の中では、「昔想いを寄せていた人物その人が探偵となって自分を見つけ出し、婚約者として家に置いてくれている。彼と自分はもうすぐ結婚する」という話になっている。Aは毎日繰り返し、現実の中でその夢を見ていた。だから私に会うたびに、意味深な目くばせをして見せた。それを、Yは見ていたのだろう。彼にとってはAの行動が、さぞ可笑しかったのに違いない。誰にも気づかれずに、YはAの心を、少しづつ泥で水攻めにしていったのだ。
 事件があった日、呼ばれて駆け付けたときには、Aは既に自分の顔を爪で引っ掻きまくりながら泣き叫んでいて、真っ赤な血と涙がその首をつたっていた。そんなAを、困ったような顔をしながら、Yが見つめていた。
「ごめんなさい。ここまでするとは思わなかったんだ。あーあ・・・かわいそうに」
 抱えられて去っていくAを見送りながら、Yはそう言った。自分が関わっていることをあっさりひけらかしたYのその様子を見て、私は沸き上がった劣等感と怒りを一瞬で沈めなければならなかった。
「何を、した?」

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