小説

『熱海の魔女』伊藤なむあひ(『ヘンゼルとグレーテル』)

 え!? なんて驚く暇もなく、『ヘンゼル』は言い終わると同時に転がってソファの後ろに身を隠します。すぐにソファにナイフが刺さりました。わたくしは『ヘンゼル』に手招きされるがままにどうにかソファの後ろに行きます。いったい何が起こっているというのでしょう。
 彼はわたくしに顔を近づけたかと思うと「ここでじっとしていて」と言い残しすぐに飛び出していきました。そしてテーブルの上にあったコップを掴むと天井の照明に投げつけます。耳障りな金属音とともに部屋が暗闇に包まれました。明かりはかまどの中の炎だけです。少し離れたところから舌打ちが聞こえました。
 わたくしは何がどうなっているのか分からず『ヘンゼル』のシルエットを目で追うくらいしかできません。彼はアクション映画さながら前転で素早く移動していきますが、窓の外から正確に追尾してくるナイフに少しづつ追い詰められていくのはわたくしにも分かりました。事実、『ヘンゼル』の苦しそうな息遣いが暗闇の中に響いています。
 対して窓の外の人物は、そんな『ヘンゼル』の姿を見てなのか嬉しくてたまらないという風な狂気を感じるかん高い笑い声を漏らしているのです。それがとても恐ろしく、わたくしは自分の肘を抱えるようにして震えていました。
「あっ!」
 思わず声をあげてしまいました。かまどの前に追い詰められた『ヘンゼル』が脇腹を押さえうずくまったのです。どの程度かは分かりませんがナイフが彼の肉体を傷付けたのでしょう。外の声はますます大きくなり、そして直接とどめを刺そうとしたのか窓ガラスを突き破り室内に飛び込んできました。
 影はわたしになんて見向きもせずすぐに『ヘンゼル』の元に辿り着き新たなナイフを取り出しました。「ぐっ……」という彼のくぐもったうめき声が聞こえます。どうしよう! そう思ったのと同時に私の体が動いていました。わたくしに何ができるとも思えないのですが、ほとんど無意識で駆け出していました。怖いのに、体が熱くて、あっ、と思ったときは影とかなり近いところにまで来ていました。一瞬の迷い。このままだと影に体当たりするような形になります。でもその後ろには『ヘンゼル』が。そしてそのさらに後ろには踊るように揺らめくかまどの炎があるのです。
 影がこちらに振り向きました。炎を背にしているのではっきりと見えるわけではありませんが女性のようでした。どうやらわたくしが向かってくるのは予想外だったらしく、驚いたように硬直しています。そのとき、かまどの前の『ヘンゼル』がこちらに手を挙げました。そして招くようなジェスチャーをした後、一瞬で影の持つナイフをはたき落とすと、横跳びでかまどの前から姿を消しました。え! と驚いている暇はありません。今がチャンスということだけは分かりました。足に力を込めタックルするように体を丸めそのまま影に突っ込みます。
 どん! という大きな衝撃のあと、体がふわりと浮き上がるような感覚がありました。いつの間にかつむっていた目を開けると、横から伸びた手にわたくしの体は抱きかかえられるような格好になっていました。そして、かまどの中には年老いた女性が。呆然とするわたくしの目の前で、言葉にならない呪詛のようななにかを繰り返しながら影だった老婆が灰になっていきます。

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