小説

『熱海の魔女』伊藤なむあひ(『ヘンゼルとグレーテル』)

「本当は花束のひとつでもお渡ししたかったのですが生憎魔女さんの住む森にはもっときれいな植物がたくさんありそうだったので」
 細い目をさらに細めてにこやかにそう言う『ヘンゼル』は、わたくしの想像とはずいぶん違ったものの少なくとも悪い人ではなさそうでした。わたくしは愚かな自分の考えを反省しなくてはいけないようです。
 用意していたシチューとチーズと窯焼きパン、そして『ヘンゼル』が用意してくれたケーキをテーブルに並べ、わたくしたちは暖かい部屋の中、楽しい時間を過ごしました。それは、わたくしの不埒な妄想を恥じることになるようなひとときでした。『ヘンゼル』は会社の研修で指導員として熱海に来ていたらしく、人に教えるのが苦手なのに毎年抜擢されてしまうといった話から、困った顧客のことや奇妙な同僚のことなどを面白おかしく話してくれました。
 対してわたくしはというと、生まれてこのかたほとんどこの山から離れたことがないので『ヘンゼル』にとって楽しい話ができたかどうかは分かりませんが、この山の美しい場所や時間のこと、お菓子の家の構造(どの部分がなんのお菓子でできているか)のこと、あとは魔女として生まれ生きることなどを熱心に語ってしまいました。
 初対面なのに話題は尽きることはなく、九時を示す柱時計の音でようやく我に返りました。
「おっともうこんな時間か」
 わたくしの反応で気付いたのか『ヘンゼル』が自分の腕時計を確認します。
「そろそろ終バスの時間でしたね」
「あ、はい。いま山を下りれば終バスにちょうど良いくらいかと思います……」
 席を立ち帰り支度を始める『ヘンゼル』を、わたくしはどういうわけか名残しい気持ちで見つめていました。ですが『ヘンゼル』は――
「では魔女さん、楽しいひと時をありがとございました。」
 なんて言いながらまたあの柔和な笑顔でわたしに右手を差し出してきます。
「『ヘンゼル』さん……」
「はい?」
 自分の名前を呼ばれた『ヘンゼル』が、笑顔を崩さないまま聞き返してきました。
「もしよろしければ、また――」
 言いかけたとき、突然『ヘンゼル』がわたくしに覆いかぶさってきたのです! あまりの出来事にその体を押しのけようと両手に力を入れたとき、大きな音がしました。直後、先ほどまでわたくしがいた場所を何かがすごい速さで飛んでいくのが見えました。タンっと音がした方を見てみると、板チョコでできた壁になにやら物騒な形のナイフが刺さっています。
「やはり来たようですね」

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