小説

『われ太陽に傲岸ならん時』末永政和(『イカロスの墜落』)

「羽が足りないな」
 ある日、ダイダロスがそう言った。有無を言わせぬ口調であった。イカロスはまたかと思ったが、逆らうことなどできるはずもない。部屋から出るのは恐ろしかったが、自分が動かなければ永遠にこの迷宮から出られないことも分っている。イカロスは渋々扉を開け、羽を拾い集めに向かった。
 そもそも、つくられて間もないこの迷宮内で、羽と蝋などそう容易に見つかるものだろうか。ダイダロスからこの二つの収集を命じられたとき、イカロスは到底不可能だと思ったが、意外にも蝋だけは容易く見つかった。
 正確には、蝋の原料だ。動物性の脂肪があれば、そこから蝋をつくりだすことができる。それなら迷宮内のあちこちに落ちているではないか……。建築から錬金術まで古今のあらゆる知識を備えたダイダロスにとって、その程度は雑作もないことだった。悪魔じみたこの所業でさえ自分の命と天秤にかければ良心を痛めるに値しなかったらしい。
 しかしイカロスは違う。彼は自身の行為を正当化するに足る理由を持っていない。自分が生き延びるために、他者の亡骸を弄ぶ。それは想像を絶する苦痛で、ミノタウロスとの遭遇に怯えながら腐りかけた欠片を拾い集めるたびに、臓腑がねじれるような思いを重ねた。
 そもそも、ダイダロスがイカロスをともに迷宮から逃がしてくれる保証などどこにもないのだ。だから急がなくてはならなかった。一対目の翼が仕上がる前に、すべての材料をそろえておかなければならない。
 蝋に比べれば、羽を集めるのは精神的にはまだ易い。時間がかかることだけが問題であった。薄暗い廊下に羽が落ちているはずもなく、イカロスは恐る恐る階段を上り、海にせり出した物見台に立った。
 遥か眼下には波打ち付ける岩礁があり、落ちればひとたまりもない。吹き上げる風に思わず上体を反らし、呼吸を落ち着ける。空は紫色に染まっており、日が暮れようとしていた。
 ここにも鳥の羽は見当たらない。せめて外気を思う存分吸い込もうとしたとき、潮風に混じって生臭いにおいが漂ってくることに気づいた。肉が腐ったようなにおい。饐えた血のにおい。同時に彼は、射るような視線を感じていた。
 全身の肌が粟立つ。このままここで殺されるのか。いや、大丈夫だ。やつも自分と同じように物見台に立っているが、二人の間は果てしない懸崖に遮られている。飛び越えられるような距離ではないのだ。
 イカロスは意を決して、視線を転じた。それまで視界の隅に微かにうつっていただけのそれは、今確かな輪郭と存在感をもって眼前に佇んでいた。禍々しき牛頭の化け物。それはまぎれもなく、囚われのミノタウロスであった。

 視線が交錯したのは一瞬のことだった。ミノタウロスが小さく首を振るのが見えたが、うなずいたのか、拒否の姿勢を示したのか、イカロスには分らなかった。

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