小説

『夏は気球に乗って』義若ユウスケ(『春は馬車に乗って』)

モンテ・クリスト伯。
私は彼をそう呼ぶことにした。
ほんとうの名前もきいたような気がするけれど、忘れてしまった。

「モンテ・クリスト伯? 外国人なのか、その男は?」
お父さんは毎日私が彼に会っているときいて、やきもちを焼いた。
「まあ、いい人なら、問題はないがね。お前ももう大人だ」

私たちはいつも裏山のふもとの公園で待ち合わせをした。
夕方、仕事帰りに私が自転車をこいでいくと、黒いスーツ姿の彼が、公園のベンチに腰かけて煙草を吸っているのだった。

彼はいつもスーツを着ていた。
いちど、暑くないの、ときいたら、暑いよ、といって笑った。

どうしていつもスーツなの?
さあ、とくに意味はないかな。ところで、君の仕事はなに?

私の仕事は、本を貸すこと。
うちの学校の図書館には、いわさきちひろの絵本がぜんぶ揃っているのです。
金子みすゞと宮沢賢治の本も、生徒たちには大人気。
私は小学校で図書の先生をやっているの。

夜は、弟の受験勉強に協力してあげる。
勉強は手伝えないけれど、夜食くらいなら作ってあげられる。
やあ、学生、調子はいかが?
今夜はなにを希望なさいます?
じゃあ、今日は英語の勉強だから、ハンバーガーを頼みます。それから、よく冷えたコカ・コーラを一瓶。

私の料理のレパートリーは、鮭おにぎりと、梅おにぎりと、昆布おにぎりと、お味噌汁。
栄養は満点。
気が向いたら玉子焼きも作ってあげるけど、これはまだ練習中。
お母さんみたいに上手に出来なくて、いつも端をすこし焦がしてしまうのだけど、弟に文句は言わせない。
コーラくらいはおごってあげる。

「さあどうぞ、めしあがれ」
「これが噂の鮭おにぎりか。涼しい夜だけど、お味噌汁はちょっと暑いね。汗をかいてしまうね。でも、すごく、美味しそうだ。いただきます」
ねえモンテ・クリスト伯、あなたはいつもなにを食べているの?
どこで眠っているの?
寝床は気球。
ご飯はこのあいだ、月まで出かけた時の残り物の宇宙食。
のどが乾いたら川の水を飲むけど、ときどきは、僕もコーラを買うよ。
いつもいろんな国のお金をすこしずつ持ち歩いてるんだ。
大金は持ち歩かない。
気球が飛べなくなるからね。

あの、西瓜の気球は、長いの?
そうだね。
ほら、ガリバー旅行記の第八十一章に、巨大なウォーターメロンにぶらさげた果物籠に乗って空を飛ぶ少年の話があるけど、あれも僕だよ。
かれこれもう、三百年近くつかってる。
あのころはまだ、僕は子供だったけれど、物心ついたころから僕は冒険家なんだ。

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