小説

『雨よ、雨よ』高橋惠利子(『Historien om en Moder』)

 猫は老婆を見上げた。
「神様なのでしょう? 慈悲深いお方ですわ、何の罪もない無垢な子供の命の花をむやみに引き抜くはずがありませんもの」
 そう、神であれば女の祈りを聞き届けてくれるはずだ。故に自分は長い道のりを歩いてきたのではなかったか。我が子を死に至らしめた憎き鳥に復讐するために。試練は受けた。
 猫は鳥が無残に雷に打たれて死ぬのを想像して笑った。
 老婆は口角を上げたに過ぎない。
「なぜ命あるものは死ぬのか考えたことはあるかい」
 老人をまっすぐ見つめる猫に、老婆がささやくように背後から言った。猫はゆっくりと振り返り、首を傾げる。
 神がいる場所で死について語ることは相応しくないように思えた。だのに猫は老婆から目を離せなかった。
「考えるものではないわな。まったくその通りだ」
 老婆の視線は恐ろしく冷ややかで、猫は視線を逸らした。心臓を鷲づかみされたように、きんきんと胸が痛み窮屈さに身体が強張る。
 視線の先には老人の姿をした神と、中年の女がいた。
 神は一言を女に投げかけた。女はわっと声をあげ、地面に突っ伏してサフランの花を抱きかかえる。
「神を疑ってはならないよ」
 老婆の声が冷たく響いた。
 猫は彼らから目を離せなかった。
 神が腰を曲げ、手をあげると女がふわりと浮き上がって離れた場所に落ちた。
 女は呆気に取られて神はどこかと探した。
 神は――、
「あいにく、あの方はこうも呼ばれている」
 老婆はとがった声で猫の耳元でささやく。けれども猫は老婆のしゃがれた声が遠くにあるものだと思っていた。
 猫が見たものは、老人がぎょろりとした目で、なんのためらいもなく青いサフランを根元から掴み、一気に引き抜いている光景だった。
「あの母親の方は最初から気づいていたみたいだがね」
 根についた土はほんの少しだった。引き抜かれた途端、サフランの花は干からびて茶色になった。
 女が空洞の眼を開き声にならない声を上げる。
「――死神と」
 老婆の声はまっすぐ猫の心臓に突き刺さった。そして猫は、女の悲鳴を聞こうが、花を引き抜こうが、まったく表情を変えない神――死神とも言われる老人の顔を、目を逸らすことなく見続けていた。

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