小説

『雨よ、雨よ』高橋惠利子(『Historien om en Moder』)

 なぜ、は言い尽くした。ではあとはどの言葉を出せば運命は変わるのだろうか。
 猫は地面に顔を押し付けた。
 死神は踵を返し去っていった。遠くで何事もなかったかのように作業を進めている。
 猫は慰めの言葉が見つからないほど慟哭した。
「雨が、降る」
 打ちひしがれた猫に、老婆が声をかける。見上げれば、いつの間にか濁った雲が空を覆っていた。
 湿り気を帯びた空気が、ひりつく喉奥をやさしく包んだ。いつのまにか自分は老婆の腕の中であった。背をさすられ、慰められている。猫は嗚咽が込み上げるのを必死で堪え、その優しさに縋った。
 ぽつぽつと灰色の雲から雫が落ちてきた。
「暖めてやろう、お前はよく働いてくれたね」
 猫は目を閉じ、老婆の懐に強く頭を押し付けた。
 春の雨は花を促す。あのカスミソウは、明日にでも咲くだろうか。
「いいものを見せてやろう」
 老婆は猫を抱いたまま立ち上がって歩き出した。
 しばらく歩き続けて、やがて老婆はある場所で止まった。人間の女の息子の花が植わっていたところである。
穴が空いていた跡地はすっかり平らになり、なによりひとつの小さな双葉が顔を出していた。
「ああっ」
 猫は老婆の腕から飛び降り、そろそろと芽に近付いた。
 くんと鼻を近づければ思わず涙ぐみそうになる。ああ、乳の匂いがする。
「死神はね、花を引き抜かなければならなかったんだよ」
 老婆は優しく声をかけた。
「そうでなければ、新しい命は一体どこに生まれればよいか?」
 猫は涙の代わりに何度も何度も若葉を舐めた。いとおしいという気持ちが自然に湧いてくる。
私の赤ちゃん!
そして自分の腹をいとおしく見つめる。この中には、あのときに出会った片目のつぶれた白猫と自分の子がいる。猫はその新芽がまさしく我が子の命の花だということを知った。かつて人間の女が息子の命を見つけたように、確信を持って。
 いよいよ雨足は強くなり、見れば若葉は少しずつ背丈を伸ばしていった。

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