小説

『真冬のセミ』羽賀加代子(『アリとキリギリス』)

「ようやく見れました。本当に美しい。世界広しと言えども、この世で雪を見たセミは私くらいのものでしょう」
セミの幼虫の目に涙が滲んだ。
「しかし、あまりの美しさに気を取られていましたらね、いつの間にか帰り道を見失ってしまいまして……。右も左もわからぬまま闇雲に歩いておりましたら、何やら美しい音色が聴こえてきたもので……」
「もしかしてこれですか?」
キリギリスがバイオリンを手に取り、得意そうに『C』の音を鳴らして見せた。
「ああ、それです。その音です。その音色を辿ってここまで来たのですが、途中で気が遠くなってしまって……」
「凍傷になりかけていたんですよ。危ないところでした」
アリがセミの幼虫に優しく微笑み掛けた。
「そうなんですか。ありがとうございました。本当に、何とお礼を申し上げたらよろしいのか……」
「いえいえ、構いませんよ。困った時はお互い様です。ねぇ、キリギリスくん」
「はい、本当に。私も数年前、このアリさんに命を助けて頂いたんですよ。本当に素晴らしい方です。貴方は運がいい」
「それはそれは有難いことです。そうだ。お礼に何かご恩返しをさせてはもらえないでしょうか? 私に出来ることなら何でもやります。」
「そんな、お気になさらず」
アリはそっとセミの幼虫の前脚をさすった。
「いえいえ。それでは私の気が済みません」
一歩も譲らないその姿勢に気圧され、アリは少し考えてから口を開いた。
「それじゃあ……。聞かせて下さいよ。世界のことを。貴方がこれから見る世界のこと。大空に羽ばたいてその目に映った全ての事を。私には羽がない。だから、空から見たこの世界がどんなものなのかが知りたい。貴方が一週間大空を羽ばたき、その目に焼き付けた軌跡を私に話して聞かせて下さい」
「え? そんな事でよろしいのですか?」
「はい。それで十分です」
あまりにも熱のこもったアリの瞳に見つめられ、セミの幼虫は心がじんわりと温まっていくのを感じた。
「わかりました。必ずやお話し致します」
「きっとですよ」
二人は、前脚を絡めて契りを交わした。

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