小説

『断ち切って、さび』日野塔子(『ラプンツェル』)

 ――きりこ!
 その瞬間頭に響いた髪長の声に、きりこは弾かれたように土を蹴った。髪を見失わないよう、かつ速度を落とさず、山道を駆けおりていく。追いつかれたら死ぬ。追いつかれたら死ぬ!
 しかし、すぐ後ろで轟音が鳴った。やつがきた、と思ったときには頭を摑まれていた。すさまじい力だ。きりこは自分がうさぎやきつねになったような気分になった。このままでは食べられてしまう。縄や刃物が頭に浮かび、そのすぐ後ろで、やつが息をのんだ。頭にやつの手の感触がし、その後には、手を突き破る感覚があった。一つや二つではない。何十、何百という触覚の嵐。動物の肉を割いた生々しいものに似ていた。
「!」
 きりこも同じように息をのんだが、異なったのは、きりこは決して足を止めなかったことだ。
 振り向かず、ただただ足を前へ動かした。木々の騒々しさも耳には入らない。
 しばらくすると灯りが見えた。きりこがいなくなったことに気がついた母と父が、山に住む人々に声をかけ、みなできりこを探していたらしい。肩で息をするきりこを見つけ、母と父は涙を流してきりこを咎め、抱きしめた。
「ああ、お願いだからこんなこと、もうしないでちょうだい。あなたまで失くすなんて耐えられない……!」
 母はきりこの耳もとで震えながら言い聞かした。父は黙って何度もきりこの頭を撫でた。ようやくきりこもやっと涙を浮かべ、無事帰ってこられたことを喜んだ。だがそれ以上に――髪長はきりこに言っていたことを思い出す。待ってほしい、と。必ず願いは叶うから、と。髪長を裏切ってしまったこと、あの後、髪長はどうなったのだろうなどと考え出すと止まらなくなり、涙は際限なく流れていく。
 よかったと話す人々が持つ火はあたたかく明るいが、小さい。そこできりこはようやく、風など吹いていないのに木々がいつもよりも激しくざわめいていることに気がつく。
 そして、寝ることのできない布団の中で、きりこは髪長のことを考えていた。

 
 数週間経ち、きりこがいくら待とうが髪長が現れることはなかった。「ねえ、お父さん」
 落ち着いたきりこは、料理をこしらえる母の手前、小声で父に話しかけた。
「なんだ?」
「この間のことなんだけれど」
「ああ。もうあんなことはしないでくれよ」
「わかってるよ……あのね、あたしが帰ってきたとき、お母さんがあなたまで失うなんてっていったの。それって少し変じゃない? まるで昔だれかを失くしたような言い方だもの」

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