小説

『玉梓』末永政和(織田作之助『雪の夜』)

 死にゆく妻の手も、あのように茶色く干涸びていた。あちこちに残る注射の跡が痛々しかった。苦労は手に表れるというのは真実なのだろう。どれだけの不安と痛みを、妻は抱えていたのだろうか。易者として生計を立てていながら、坂田は結婚して以来、妻の手相を見たことがなかった。妻の不義理さえもが手相にあらわれてくるような気がして怖かったのだ。子どもの父親が誰だったのか、その疑惑は膨らむばかりで、何も出来ず病床に臥す妻を横目に、坂田は日がな鬱々とするばかりだった。
 昨年の大晦日に、かつて妻と通じていた松本という男と偶然出会った。男の顔を見て、やっぱり妻は不貞を働いていたのだと疑う余地もなくはっきりした。だからといって怒りが込み上げるでもなく、心は不思議と穏やかだった。過去に何があったとしても、無一物の男を選んで故郷を捨ててくれたのだ。東京は嫌だ、別府で死にたいと望んだのは妻であったが、なんとか大阪に帰らせてやりたいとそのとき坂田は思った。だから年明けてからは必死で旅費を蓄えようとしたが、使う機会はついに訪れなかった。
 結局自分は、妻を許したのだろうか。許すも何も、そんな偉そうなことを言う資格はないのかもしれない。駆け落ち同然で二人転がって転がって、いい思いなど何ひとつさせてやれなかった。自分が鬱々と抱えていたのは、もしかしたらその罪悪感だったのかもしれない。

 翌日も雪は降り続いた。
「露天風呂から眺める星空も格別なんですけどねぇ」
 廊下で出くわした女中が、申し訳なさそうに言った。明け方、気になってまた露天風呂に行くと、カマキリの卵は変わらずそこにあった。そのことを女中に告げようかと思ったが、処分されたらかわいそうだと思ってやめておいた。
「まぁ、雪景色だって見慣れない人にはきれいでしょうし、悪いことなんてそうそう続くもんじゃありませんよ」
 辛気くさい坂田の顔を見て、女中はそう言った。
 日中はどこへも行かず、横になっていた。吹き付ける風の音を聞いていた。雪が窓を打ち付けて、床の間に活けられたカラスウリの実が震えているような気がした。色褪せたカラスウリの実は薄く埃をかぶっていて、高島野十郎とかいう画家の絵のようだった。
 このまま生きていたところで、何の面白みもないような気がした。一人老いを重ねて、それでいったい何になるだろう。どのみち、ここの宿代を払えばすっからかんになるのだ。また空き缶集めと易者の日々に戻るのか。考えるまでもないだろう。

 その晩もその次の晩も、坂田は灯籠の廊下を歩き、闇をくぐり、露天風呂でカマキリの卵と向き合った。ひなびた温泉宿に客の姿はあまりなく、どこへ行っても自分一人でいられるのはありがたかった。

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