小説

『そらの瑕』木江恭(『王子と乞食』)

 やっと事態に気がついたらにが声を上げようとする。男はがむしゃらに押さえ込む。とうとうらにも本気で暴れて、普段の大人しさが嘘のような金切り声を上げながら男の手のひらに噛み付く。血の味、臭い。男は一瞬怯んで手を緩める。らにが振り回した手が男の米神を引っ叩き、男はよろけた拍子に卓袱台の角に背中を打ち付けて舌打ちする。このクソガキが!
 男がカーテンの陰に手を伸ばす。狭いこの部屋では何にでも手が届いてしまう。身を潜めていた凶器にだって。
 四つん這いになって逃げ出すらにに、男がバットを振り下ろす。

 背筋を襲う寒気にエミは目を覚ます。
 悪夢のためにびっしょりと汗をかいていた。エミはのろのろと身体を起こして時計を見る。午前四時。あれ、あんな時計うちにあったっけ。ここは何処だっけ。そうだ、一晩だけのおうち交換、エミはらにのうちに、らにはエミのうちに。
 突然心臓が冷たく痛む。らに。あの怪物は大抵昼まで帰ってこない。だけど三日に一回くらいの確率で、明け方に帰ってくることがある。もし怪物がらにを見つけてしまったら、夢は夢で終わらない。
 エミは立ち上がって駆け出そうとする。痺れた足が言うことを聞かず、昨晩自分が投げ捨てた写真立ての貝殻の上に無様に倒れ込む。膝に痛みが走るが、エミは腕で這いずるようにして玄関に向かう。
 眠る前のエミは確かにその悪夢を望んでいた。そうなるかもしれないとわかっていて、いくばくかの期待を抱いてらにをあの家に招いたのだった。可愛いらに。可哀想ならに。一つくらい、わたしにも見下させてよ。
 どうしてそんなひどいことが出来たのだろう。疑うことを知らないらに。エミちゃんおはよう、毎朝寝坊も遅刻もせずに迎えにくるらに、教室で時々寂しそうにエミを見つめているらに。
 怪物は――わたしの方だ。
 靴の踵を踏み潰してつっかける。りっばな玄関ドアを蹴飛ばして飛び出していく。後ろで日本人形が声を出さずに笑っている。
 まだ薄暗いアスファルトの道を全力で走る。暴力的な冷気、今にも血が出そうなくらい鼻の奥が痛む。膝も痛い。それでもエミは走る。
 陰気なアパートが見えてくる。エミの心臓ががんがんと悲鳴をあげている。嫌という程、本当に嫌な程に見慣れたうちの玄関前で、エミはがくがく震える足を奮い立たせて、ノブに手をかける。
 鍵は、開いていた。
 ドアを引く。断末魔のような軋み。狭い玄関。二十二センチのぺたんこ靴。それだけだ。
「らに?」

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