小説

『そらの瑕』木江恭(『王子と乞食』)

 らには布団を乗り越えて突き当りの窓を開ける。雑草といやにつるりと色の白い木が生えた裏庭が見え、茂みの間からはアパートの敷地とらにの家との境界を区切る塀が立っている。らには見えない我が家に語りかける。エミちゃん、おうち交換楽しいね!寒さに耐え兼ねて窓を閉める時、らには古ぼけた木のバットをカーテンの陰に見つける。エミちゃんは野球なんてやっていたのかな。それともお兄さんか弟さんがいるのかな。明日になったら聞いてみなくちゃ。らにはエミちゃんのことが知りたい、もっともっと。
 テレビをつけてみたが映りが悪くしょっちゅうノイズが入るので集中できない。らには早々に諦めて布団に潜り込み、冷たさに足を縮こまらせる。布団の感触も枕の高さも何もかも自分のものとは違う。最初のうち興奮してちっとも寝付けないらにも、気がつけばすとんと眠ってしまう。そしてエミの声の幻聴に起こされる。
 しばらく暗闇を見つめて外の騒音に耳を澄ませているうちに、らにの耳は違う音を聞きつける。玄関の方から、がちゃがちゃと鍵を回す音、低い呟き、夜中だというのに遠慮なく響く足音、それもよろけているかのように不規則な。帰ったぞお、車のエンジン音のような唸り声と共にドアが開く。誰かが帰ってきた!今日は誰もいないってエミちゃん言っていたのに!
らには緊張で凍りつく。それから、おうちの人ならば挨拶をしなければと思い直し、そっと身体を起こす。同時に電灯が点く。おいエミ、いるなら返事しやがれ、また殴られてえのか!
 狭い部屋で、らにと男は見つめ合う。中年男はぎょっと目を見開いている、白目の部分は血走りげっそりとくまが浮いた皮膚はたるんでいる。背は低く小太りで、冬だというのに汗をかいている。黒ずんだシミだらけのカーキ色のジャンパーにごわごわとしたズボン、灰色の靴下にはいくつも穴が空いている。不潔な異臭が男から漂うが、らにはその臭いの正体が酒と煙草と生ゴミであるとはわからない。
 らには座ったままで頭を下げる。初めまして、大道寺らにです。らには、ハワイの言葉で空という意味です。エミちゃんの友達です。今日はおうち交換でお泊りにきました。突然お邪魔していてごめんなさい、おうちの方がいらっしゃるとは知らなかったのです。
 エミの友達、と男は繰り返し、らにを呆然と眺める。幼さの残る色白の顔を、華奢な身体を、無防備で控えめな笑顔を。それから突然愛想よく笑いかける。やあ、これはどうも、エミの父親です、エミが友達を連れてくるなんて。ぺらぺらと喋る度に濁った息が漏れ、黄色い歪んだ犬歯が覗く。らにちゃん、可愛い名前だね、らにちゃん、初めまして。
 男は喋りながらじりじりとらにに近寄っていく。らには笑顔のまま男を見上げている。
 不意に男がらにを突き飛ばす。呆気なくらには仰向けに倒れ込む。男はその上に伸し掛る。悲鳴を上げることすら思いつかないらにの口を固い手のひらで塞ぎ、もう一方の手が衣服をはぎ取ろうとする。

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