小説

『そらの瑕』木江恭(『王子と乞食』)

 エミはらにのベッドに寝転がった。ひんやりとしたベッドカバーの向こうに温もりがある。枕元には電気毛布のスイッチがあかあかと「強」のランプを照らしている。らには一体何処まで暖かく迎えれば気が済むのだろう。
 エミは身体を起こしてリビングに戻った。らにはこうも言っていた。ご飯は食べたと思うけど、もしお腹が空いたら冷蔵庫の中のものも好きに食べてね。
 先程足を踏み入れなかったキッチンはさすがに薄暗い。壁のスイッチを探り当てて押すと青白い光がキッチンをぴかぴかと照らし出す。顔さえ移りそうな程磨かれたシンク、焦げも染みも見当たらないガス台、清潔さを強調するプールのような消毒臭。エミの背丈よりもはるかに大きな冷蔵庫を開けると、アルファベットが羅列された飲み物や見たこともない調味料がぎっしりとドアポケットを占領している。透明な仕切り棚には、日付と内容物が書かれたタッパーが規則正しく整列している。1/15、ラタトゥイユ。1/15、ひじきの煮物。1/16、グーラッシュ。
 エミは冷蔵庫を閉める。ふと気がつくと冷蔵庫にはたくさんのメモが貼ってある。らにちゃんへ、出張に行ってきます、欲しいお土産が見つかったらメールしてね。ママ、お帰りなさい、らには先に寝てるけど明日たくさんお話聞かせてね。らにへ、らにの好きなガナッシュの詰め合わせ、冷蔵庫に入れておいたよ。パパへ、ありがとう、大事に食べるね。らにちゃんへ、今朝の咳が心配です、しょうが湯をお鍋に作ったので寝る前に飲んでね。らにへ、成績表見ました、頑張り屋のらにはパパの自慢です。ママへ、昨日はごめんね、らにが言いすぎました。パパへ、お仕事お疲れ様。ママとのディナーどうだった?たまにはらにのことは気にせずデートしてね。
 パパへ、ママへ、らにへ、らにちゃんへ、ありがとう、ごめんね、大丈夫、頑張って、頑張ろう、よくできました、好き好き大好きみんな大好きあいしてる。
 息が詰まる。
 エミはキッチンを飛び出す。ソファに飛びつこうとして、投げ出したままの写真立てに気が付く。小さな白い巻貝でびっしりと縁どられた、ハワイの空と海と家族の団らん。つながれた手。交わされる笑顔。完璧な、家族。
 溺れる程に愛されて育ったらには人を疑わない。「ねえらに、お父さんとお母さんまた出張なんでしょ。今日はうちも誰もいないから、一晩だけおうち交換をしない?」、エミが提案するとらにはすぐに乗り気になった。エミを迎え入れたあと、入れ違いにアパートに向かう足取りは弾んでいた。万全に用意されていたのは新品のスリッパと、明るいリビングと、暖かすぎる部屋。
 可愛いらに。可哀想ならに。
 エミは写真立てを床に叩きつけた。体力テストのボール投げよりに精一杯力を込めたのに、柔らかい絨毯はエミの癇癪さえもすうっと吸収してしまって写真立てにも床にも傷一つ残らない。
 息を吸った拍子につんと鼻の奥が傷んで、涙が溢れた。

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